その他

□黒子のバスケ
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 最近の父の様子はどこかおかしかった。

 原因は何となくわかっていた。薪や細工物の売れ行きがパッタリ売れなくなったせいだ。パンを買うお金もなくて、夕飯を食べずに寝ることが増えた。朝も、今まで置かれていた僕の分のパンが置かれなくなった。なので、仔犬に会いに行ってもグーグーとみっともなく腹を空かせていることが多々あり、とても恥ずかしい。けれど、家に食べ物はなく、何か食べ物を取りに行こうにも僕の行ける範囲には食べられそうな草や木の実の類は自生していなかった。何とか井戸の水だけで空腹を誤魔化そうとしたものの水だけでは腹が満たされることはなかった。

 何か食べたい。けれど、食べる物がない。

 そんな僕の事情を察したらしい仔犬が、いつ頃か自分の獲物とは別に僕のために木の実を用意して待っていてくれることが増えた。それを初めて見たときは、始めは仔犬が自分の為の物に持ってきたのだと思って、できるだけ視界に入れないようにしていたけれど、仔犬が木の実をのせた大きな葉っぱを僕の方へと寄せてくるのでそこでようやくそれが僕のために取ってきてくれたものだと気付いた。

 仔犬を拾った当初、僕はまだ幼い仔犬のために食べ物を分け与えなければならないと思っていた。しかし、仔犬は小さな見かけとは裏腹に自分一人で食べていけるだけの力を充分に持っていた。そして、今では僕は仔犬から食べ物を貰っている。互いの立場が完全に逆転していた。正直、複雑な想いは拭えないけれど、空腹の苦しみに耐え切れず僕は仔犬から木の実を受け取って食べた。小さな木の実や少量の果物では腹が満たされることはなかったけれど、辛い空腹を誤魔化すことはできたし、飢えに倒れることもなかった。

 小さな体で恩義を果たそうとする義理堅い仔犬の好意のおかげで何とか飢えに苦しむことなく日々の空腹をしのぐことができていた。

 最近、父が夜に飲む酒の量が増えた。

 そして、ある夜。僕は父に襲われた。酔った父が僕のことを母と間違えたのだ。

 いつものように冷たい床の上でシーツに包まって横たわっていた。慢性的な空腹を抱えながら何とか眠ろうとして目を瞑っていたとき、上の方からベッドが軋む音がした。父がベッドから降りたのだとわかった。用を足しに行くのだろうか。息を潜め、父の様子を伺っていると、床で寝ている僕に父が覆い被さってきた。



(え?)



 一瞬、何が起きたのかわからなかった。被っていたシーツを剥ぎ取られ、かき抱くように腕の中に閉じ込められた。ムワッと立ち込めたような酒の臭いが鼻を衝いた。スルリと滑り込むように服の下に手が入り込んできて、耳元で母の名前を囁かれた。そこで初めて自分が何をされようとしているのかを理解した。深酒をした父は正気ではない。



「と、父さん! 僕は、母さんじゃない」


 押さえつけてくる父の体を何とか押し返しながら、自分は母ではないと訴えたが、正気を失った父に僕の声は届くことはなかった。腕を突っ張って身を離そうとする態度に苛立った父が「言うことを聞け!」と怒鳴りつけた。大きく手を振りかぶって力いっぱい僕の頬を引っ叩く。一瞬、瞼の裏で星が飛んで視界が歪む。叩かれた頬も腫れ上がったように熱を持ち、ジンジンと痛んだが、抵抗をやめるわけにはいかなかった。



「父さん! 父さん! 離して下さい」



 このまま事を進められると取り返しがつかないことになる。引き返せなくなる。ただただ、恐ろしかった。父の中の母への愛が汚されてしまう気がした。そんなことを許せる筈がなかった。本来は母に向かうべき情動の矛先が自分であるなら尚更だ。そんな悍ましいことはけしてあってはならない。

 今の父はいつもの父ではない。何とかして、理性を失った父の凶行を止めなければならない。手足をがむしゃらに動かした。何度も何度も父を呼んだ。必死に呼びかけた。しかし、押さえ付けてくる力が緩むことはなかった。

 暴れる僕を再び力づくで黙らせようと父が手を振り上げてきた。その一瞬の動作の隙を付いて力いっぱい両手で父を突き飛ばした。さらに続けるように蹴り飛ばして互いの体を離す。柔らかい腹部を蹴られた父が痛みに悶絶しているうちに、狭い小屋の中を転げ出るようにして、外へ飛び出した。

 外は真っ暗だった。黒々とした木々が取り囲む世界を前に足が竦んでしまった。今まで、夜に外に出たことはなかったため、夜の世界を見たことがなかった。昼間とは異なる暗黒の世界は未知の領域だった。何処に行けばいいのかわからない。行く宛てなんてある筈もない。ただ、家の中で父と二人きりになるのはまずいと思って反射的に飛び出しただけだ。しかし、このまま家には居られない。

 不気味な夜の闇に二の足を踏んでいると、背後から鈍く重たい衝撃を叩きつけられて、前方へと突き飛ばされてしまった。背中を蹴り飛ばされ、一瞬、呼吸が詰まった。ろくに受け身を取ることも出来ずに前のめりに倒れ伏せたところを、怒りに顔を真っ赤に歪めた父に組み伏せられ、何度も何度も頭や顔を殴られる。「よくもやってくれたな」と怒鳴られた。「ふざけるなよ」と胸倉を掴まれた。そして、太い腕を振り上げて、何度も叩き下ろされた。顔を殴られる度に瞼の裏がチカチカと点滅した。何だか頭が重い。叩かれた頬がヒリヒリと熱を持っている。視界がクラクラと揺れて気持ち悪い。胸の奥で何かがぐるぐると渦巻いているような感覚が込み上げてきた。



「ワンッ」



 止まることのない嵐のような暴力に意識が削られ、徐々に霞んでいく意識の中で、犬の鳴き声が聞こえてきた。犬だ。僕に懐いてくれている小さな仔犬。もしかすると、父さんと僕のやり取りを聞きつけて駆け付けてきたのか。



「何だ? この犬は……」



 突然、現れた犬に父が手を止めて不審そうに眉を顰める。仔犬の方は小さな体を緊張させながら、牙を剥き出しにして低く唸り声を上げている。そして、次の瞬間。まるで、獲物を狩るような俊敏な動きで父の背中へ飛び掛かり、その頭へと喰らいついた。



「ギャアアッ」



 突然、獣と化した仔犬に襲われた父は僕を組み敷いていた体を仰け反るようにして立ち上がり、両腕と上半身を振り乱して、喰らい付く犬を振り落とそうとする。しかし、犬も齧り付いて離れようとせず、振り落とされまいと鋭い牙をグイグイ食い込ませていく。狂乱したように振り回す頭からはダラダラと血が流れ落ちていき、あっちこちに点々と血が飛び散っていく。

 あの物静かで賢い犬が父を襲っていることが信じられなかった。僕を慕ってくれていた小さな仔犬の思わぬ一面。大人しい筈の仔犬が、今、目の前で低い唸り声を上げながら牙を剥き出しにし、僕のたったひとりの、大切な家族を襲っている。

 その理由は言われるまでもなくわかっていた。僕のせいだ。普段はとても温厚な仔犬が、どうしてこんなことをしたのか。身体は小さいものの大人しくて賢い性質の犬だ。理由もなく人を襲うようなことは絶対にしない。あの犬が人を襲う時は何か理由がある。そして、その原因が自分だということは誰が見ても明らかな事実だ。僕を慕ってくれている仔犬は、父と僕のやり取りを聞きつけて助けにきたのだ。小さな体で一生懸命に僕を守ろうとしてくれているだけなのだ。父の狂気を止められずに逃げ出した弱さが、目の前の惨状を生み出してしまった。

 父と犬の攻防を呆然と見上げていた僕の頬に、赤い血がピッと飛んできた。指で血を拭い取り、見る。

 ……父の、血だ。



「やめろ! 今すぐ父さんから、離れろ!」



 犬に向かって叫んだ。犬はピタリと動きを止めて、弾かれたように後頭部から飛び退いた。その際に、勢い余って父の体がよろめいた。



「父さん!」


 くるりと華麗に着地した犬には目もくれずに、一目散に血を流している父の元へと駆け寄った。よろけた体を支えるつもりで手を伸ばすと、バシッと叩き落とすように振り払われてしまった。身の内の怒りをギュッと握り込むように拳を震わせている父は、僕のことなど眼中になかった。グルンと首を回して憎々しげに顔を歪めて犬を睨んだ。そして、邪魔だと言わんばかりに僕を押し退けて、家の入り口へ向かい、戸口の脇に立て掛けている重たい斧を手に取った。



「父さん!」



 父が何をしようとしているのかを察して思わず、懇願するように父の名前を呼ぶ。けれど、我を忘れた相手の耳に僕の声など届いない。届いていたとしても無視されているだろう。

 ブツブツと何か呟きながら、両手で斧を握り締めた父はフラッと犬に近付いたかと思うと、犬に向かって思いっきり斧を振り落とした。


「父さん! やめて」


 しかし、斧が叩き降ろされる寸前のところで犬はヒョイと身を翻して避ける。重たい斧は思いっきり空振りして地面に落とされた。深酒をして酔った人間が、相手がまだ仔犬とはいえ野生の獣の身軽で素早い動きを仕留められる訳がない。

 しかし、万が一、僕がずっと恐れていたことが起きてしまったら……。

 今、この場では大丈夫でも、この先、父が仔犬を殺すことだって充分に起こり得る。家の周辺にトラバサミを仕掛けて、僕に会いに来た仔犬を殺すかもしれない。または、家に置いている銃で撃ち殺すことだってできる。



(―――もしも、父が仔犬を殺してしまったら。)



 想像するだけで背筋がゾッとした。そんなことは、けしてあってはならない。僕を慕い、守ろうとしてくれている仔犬を傷付けさせるわけにはいかない。もう潮時なのかもしれない。ソッと目を閉じる。脳裏に仔犬と戯れた温かな過去が蘇る。あの温かくて小さな体を冷たい骸になどさせはしない。仔犬を逃がす。もう二度、此処に来ないようにする。この先、二人が会うことがないようにするのだ。もう二度と、あの柔らかな毛並みに触れることもないだろう。



(そうだ。殺されてしまうくらいなら……)



 二度と会えなくても、どこかで元気に生きていてくれる方がずっと良い。覚悟を決めて瞳を開く。父と睨み合うように向かい合っている仔犬に向かって叫ぶ。



「父さんを傷付けたお前なんか大ッ嫌いだ!」



 仔犬が僕を見た。パッと見では普段通り感情を覗かせることのない瞳だが、僕には仔犬の動揺が手に取るようにわかった。薄青色の瞳が揺れている。傷付けた。確かな手応えを感じて続けざまに言い放つ。



「お前の顔なんか見たくもない! もう二度とこの家に来るな!」



 血を吐くように叫ぶと、仔犬はくるりと背を向けて、逃げるように茂みの向こうに飛び込んで去って行った。

 あとには斧を手にした父と、僕だけが残された。仔犬が消えた茂みを呆然と見つめていると、強く腕を引っ張られ、家の中へと引きずるように連れて行かれた。

 それからは、朝まで悪夢のような時間を過ごした。
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