その他

□黒子のバスケ
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「いつまで寝ている気だ! とっとと起きろ」


 僕の朝は、がなり立てる低い声と、脳天に響く拳の痛みで目覚め、憎々しげにこちらを見下ろす目に「おはようございます。父さん」と無感動に挨拶をして一日が始まる。

 小暗い森のはずれにある小さな小屋が、僕と父さんの住む家だった。母はいない。僕を産んですぐに死んでしまった。

 僕は生まれつき左右の眼の色が異なっていた。右眼は赤、左眼は橙。左右で異なる眼を持って生まれた僕は、邪眼を持つ母親殺しの悪魔の子として村人達からたいそう忌み嫌われた。元々、社会的に不吉とされている赤毛を持つ家系だったこともあり、父も妻を生贄にした悪魔崇拝者として非難され、父子共々悪魔の親子として迫害された。

 追い出されるように村を出た父は人里から離れた森のはずれに居をかまえた。そこで、木こりを生業とし、毎日森に入っては木を切り、薪となる枝を集めて生活を始めた。村では物作りの職人として働いていた父は、集めた木片でちょっとした細工物を作ったりもして、それらを町に運んで売ったりもしていた。しかし、それらは大した収入にはならず、毎日、父が働き詰めに働いても二人で食べるのがやっとで生活は苦しかった。

 母がもし生きていたなら、妻として夫を助けることができただろう。父と共に森に入って薪を集めたり、家の中の様々な雑用を切り盛りして心身ともに父を支え、日々の疲れを癒すと存在となってくれた筈だ。しかし、母は忌まわしい赤い子どもと引き換えに死んでしまった。

 父は憎いはずの僕を殺さなかった。殺せなかったのだろう。今まで何度か寝ているときに、首を絞められたことがあった。愛する妻を殺した張本人が安穏とした様子で寝息を立てて寝ている姿を見て、殺してやりたくなるのだろう。しかし、それらは衝動的な殺意なので、すぐに手の力を緩めて「そんな目で、あいつと同じ顔で……オレを見るな」と泣きそうに歪んだ顔で言われてしまう。色違いの眼をしているとはいえ僕の顔立ちは死んだ母と似ていた。母親似の顔のおかげで命こそ奪われはしないものの、母を奪われた父の憎悪の矛先はいつだって僕に向けられていた。愛していた妻を失い、村を追われて悪魔のような子供と二人きりの生活。朝から晩まで毎日休まず働いて心安らぐ暇もない。行き場のない怒りと憎しみをひとりで抱え込むしかない、孤独で哀れな父を憎むことはできなかった。

 近くに人家は一つもない小暗い森はずれの貧しい小屋の中で、遊び相手もおらず、朝方に父が森に出掛けるのを見送ると一人で夕方まで留守番をする。それが僕の一日だった。来る日も来る日も同じ日々。父と二人。何処か歪で不穏な、慎ましやかな暮らしだった。

 ある時、留守番中に犬の鳴き声が聞こえてきた。家の中を掃除をしている最中だったけれど、今にも途切れそうな弱々しく哀れな鳴き声に無視をするわけにもいかず、窓を拭いていた手をとめてそっと家を出た。本当は家から出ては行けないと父からキツく言われていたけれど、まるで助けを求めるような声に気付きながら知らないふりをするのも後味が悪かった。

 今回だけだと自分に言い聞かせながら外に出る。犬はすぐに見つかった。家から出て数メートル先の茂みの前で、 白と黒の柄をした小さな獣が右の前脚からダラダラと血をたわっていた。子供の両腕でもすっぽりと抱けるくらいの仔犬だった。砂利を踏む足音に気付いた犬が僕を見上げた。僕の痛ましげな視線を察したらしい犬が助けを求めるように「クゥーン」と弱々しい鳴き声を上げた。



「……少し、傷口を見せてくれるかい?」



 僕の呼びかけに犬が再び「クゥーン」と弱々しく返事をした。

 詳しく傷口を診るために倒れている犬の前にしゃがみこむ。すぐ目の前まで近付いても仔犬は大人しく身を横たえたまま身動ぎすることなく、僕が脚に手を伸ばしても、抵抗する素振りを一切見せなかった。傷口の周辺は血や泥で汚れており、所々毛が固まってしまっていた。これでは怪我の状態がよくわからない。怪我を手当するから少し待っているようにと、犬に言い聞かせて家に入る。箪笥から剃刀と手拭いを何枚か持ち出して、家の裏にある井戸で水を桶に汲み入れて犬の前へ置く。一旦、荷物を置いてから家の周辺に咲いている傷によく効くという薬草を摘み取ってから再び犬の元へを戻る。



「今からお前の傷を手当てする。その際に、毛が邪魔なので傷口周辺の毛を剃らせてもらう」

「キューン……」


 犬がまた小さく返事をした。

 まず、傷があるだろうと思われる箇所の邪魔な毛を剃った。付着している血や泥の汚れを落とすため、あらかじめ桶に汲み入れていた水で傷口とその周辺を洗い流して綺麗にする。汚れを落としてあらわになった脚の怪我は、鋭利な刃物か何かで切ったような5センチ程の切り傷があった。水洗いした新鮮な薬草の葉を揉んでしぼり出した汁を切り傷に塗布し、手拭いを強く巻き付けて患部を保護する。薬草の知識は、特に誰かから教わったものではなく、父が仕事で怪我をしたときに自分で処置している様子を見て覚えたものである。



「はい。終わったよ」



 手当てを終えて「それじゃあもう怪我をしないように気を付けるんだよ」と最後に仔犬に注意してから、背を向けて自宅に戻ろうとしたところで、背後で草を踏む音がした。振り返ると、身を横たえていたはずの犬が立ち上がってよろよろと覚束ない足取りで僕のあとを付いて来ていた。



「ワン」



 懐かれてしまったようだ。尻尾をブンブンと振り回している。


 
「すまない。僕の家ではお前を飼えないんだ」



 期待するように見上げてくる勿忘草の色をした瞳に、チクリと胸が痛んだ。幼い野良犬にとって僕が気まぐれに与える温情は無駄な期待を抱かせてしまう、ひどく残酷なものだったらしい。けれど、こうして懐かれるとわかっていても、再び助けを求めながら死にかけている仔犬が現れたら、自身の心の安寧のために見捨てることはできないだろう。



「お前にも親や仲間がいるんだろう? 早くみんなの所に帰るんだ」



 努めて感情を声に乗せないように意識して告げる。ブンブンと振り回していた尻尾が垂れ下がり、仔犬が「クーン」と覇気のない鳴き声を上げた。



「じゃあね」



 物言いたげな視線を遮るようにバタンと扉を締めて家の中へ入る。扉の覗き穴からこっそり外の様子を伺うと、犬は扉を見上げてちょこんと座りこんでいた。そのうちに諦めて何処かに行くだろうと考えて、放り出していた雑巾を手に中断していた窓拭きを再開した。埃を叩き、床を雑巾がけして、掃除が一段落してホッと台所のテーブルに座ってひと息ついた時、ふと犬のことを思い出した。何気なく玄関の覗き穴を覗いてみた。すると、まだ犬が座りこんで扉を見上げていた。

 帰れと言ったのに帰らない。この犬は僕が受け入れるまで扉の外でずっと待ち続けるつもりだと気付いた。これは厄介なことになった。



(もしも、父が帰ってきてこの犬のを見つけたら……。)



 足に巻いた手拭いで僕が犬の手当てをしたことは一目瞭然だ。僕のことを憎んでいる父は、この犬を酷い目に合わせるだろう。虫の居所が悪ければ最悪、殺してしまうかもしれない。この犬の為を想うなら、今すぐにでも僕は力づくて犬を追っ払わなければならない。石を投げつけるなり、冷たい水をぶっ掛けるなりすれば、この頑固な犬も流石に尻尾を巻いて逃げ出すに違いない。可哀想だけれど仕方がない。いつまでも玄関口に居座られて父に見つかるわけにいかないのだ。

 溜め息をひとつ吐いてドアを開け、そこにいる犬を見下ろす。犬は出てきた僕をジッと見上げている。なんの感情も覗かせない透き通るような瞳。その静かな視線はまるでこちらの真意をはかろうとしているように見えた。子供でも抱えられるほど小さな仔犬だが、その瞳には確かに知性が宿っていた。追い払おうにも静かに見つめられると、水をぶっかけたり、石を投げつけたりすることに対して気が引けた。もしも、目の前の仔犬が言うことを聞かずにキャンキャンと煩く吠える馬鹿な犬だったり、可愛がられて当然のように甘えて来られたりしたのなら、心を鬼にして躊躇いなく力づくで追い払えた。しかし、目の前の仔犬は吠えもせず、鳴きもせず、身動ぎすることもなく静かにこちらを見つめるだけ。



(さて、どうしたものか……)



 元々、僕は動物が嫌いではない。今まで僕は動物どころか父以外の人間ともろくに会ったがことなかった。外に出るのも自宅の裏にある井戸に水を汲むくらいで、家の周辺を歩き回ったこともない。犬や鳥なんかは窓から見かける程度で、もっと近くで見たり、触ってみたいなといつも硝子越しに夢見ていた。そして、その姿を近くで見たり、触れたりするのは今回が初めてだった。なので、小さくな犬が大人しく自分に懐いてくれているというのはとても嬉しかった。

 たとえ犬でも、自分に明確な好意を抱いてくれる存在は初めてだった。父以外の存在との触れ合いはとても新鮮なものに感じられた。

 しかし、そうも言っていられない。父が帰ってくる前に頑固な犬をどうにかしなければならない。



「お前の存在を父さんに知られるわけにはいかない。だから、そんなところに居座られても困る。今すぐそこを退け」



 叱責するような声音で言う。座りこんでいた犬が黙って立ち上がった。しかし、移動する気はないらしく、立ったままなんの感情も覗かせない瞳で僕を見上げてくる。やはりこの犬は小さく愛らしい外見に似合わずとても我の強い性格をしている。



「僕の言うことがわからない訳ではないだろう。どうして此処を退かない? そんなに僕のことを気に入ったのか?」



 思わず、呆れたように聞いてみると、当然だと言うように「ワン」と短く返事をされた。

 言うことを聞かないけれど、馬鹿ではない。知らず知らずのうちに溜め息がまた口から出てきてしまった。



「仕方がない。そこを動く気がないのなら、僕がお前の居場所を作ってやる。付いて来い」



 言うと犬は大人しく僕の後に付いて来た。家を出てすぐ裏の井戸がある場所に向かう。井戸の向こう見える茂みに分け入る。水を汲みにくるたびにその向こうの景色を目にしていたが実際に足を踏み入れたことはなかった。周囲には何本も幹が太く高い木が生えている。目当ての木を探しながら見渡すと、すぐ近くにちょうど良い木が見つかった。



「ほら、あれをご覧。あそこがお前のねぐらだ」



 太くて大きな一本の木。そこにぽっかりとできた樹洞を指差して言った。犬はチラリと僕が指差した方を見ると、また僕の顔を見上げてきた。



「父さんに見つかるわけにいかないからね。ねぐらとしてお前がここに居るなら、僕は毎日できるだけお前に食事を届けに来ると約束しよう」

「ワン」



 仔犬はゆるりと尻尾を揺らしながら高い声で鳴いた。どうやら了承してもらえたようだ。

 但し、僕の家は裕福ではないので腹いっぱいの食事ができるとは限らないことと、毎日餌を与えられるとは限らないこと。この二点の注意事項をしっかり伝えておいた。

 正直、その日一日を食べるのが精一杯な暮らしの中で犬に食べ物をあげる余裕などありはしない。それを改めて誰かに言われるまでもなく十分に理解した上で、僕が決めたことだった。最後まで責任を持って自分の分のパンやミルクを半分ずつ犬と分けていこうと決めた。

 仔犬をこっそり世話するようになって二日が経った。

 意外なことに仔犬は僕が用意した餌に手を付けず、自分で小動物を狩って食べていた。拍子抜けして「自分で餌を取れるのなら、僕が来なくても良いんじゃないか」と言ってみたら珍しく怒ったように吠えられてしまった。そして、翌日。本当に犬の元に行かなかったら、昼下がりに仔犬が家の前まで来て煩く吠え立てられた。喧しく呼び出されたので、仕方なく与えるべき食べ物も持たずに手ぶらで犬のねぐらへ向かうと犬は尻尾を振って出迎えてくれた。何がそんなに楽しいのかわからずに「僕が来てそんなに嬉しいのか?」と訊ねてみると、犬は元気よく「ワン」と答えた。

 父が仕事に出かけると、僕は洗濯をして家の中を掃除する。そして、午後から仔犬のねぐらに会いに行く。

 父以外の誰かの存在は、自分でも気付かなかった寂しさを埋めてくれた。

 その小さな温もりに触れているだけで、起き抜けから父に怒鳴られて萎縮した心がやわらかくほぐされた。頬を殴られてズキズキと疼いていた痛みも、心配そうに見上げてペロペロと慰めるように舐めてもらうだけで一時的に忘れることができた。少しずつ、僕は物言わぬ幼い仔犬に自分の中の感情をさらけ出すようになった。自分の中で持て余していた寂しさをぽつりぽつりと訴えながら、ふわふわとした優しい毛並み体を抱き締めた。父の前ではけして見せることなかった涙を、子犬の前で流して泣いてしまったこともある。いつだって物言わぬ仔犬は僕の心の内を黙って受け止めて、慰めてくれた。

 今のところ父に勘付かれたりしている様子は見られない。犬の方も父に見られないように気を付けているらしく、父が家に居るときに外で犬の鳴き声が聞こえることはなかった。

 犬とともに過ごし始めて一ヶ月。

 僕と犬の平穏な日々は、唐突に終わりを迎えた。
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