おそ松さん

□カラ松Rat事変
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 一松に猫缶を投げ付けられたカラ松は廊下でしばらく痛みに悶えていた。

 ようやく痛みが退いてきたので何事もなかったかのように、部屋に戻り水槽にラットを返した。

 部屋の窓辺には猫じゃらし片手に猫と戯れる一松がいたが、カラ松は特に気にしなかった。一松がカラ松に対して特に風当たりが強いのなんて今さらである。

 巣に返したラットは隅っこに身を寄せて完全に怯えていた。

 まるで、松野家にやってきた当初と同じ態度をとられて、カラ松は大きなショックを受けた。



「Ah……俺は何と取り返しのつかないことを……」



 窓辺で猫と遊んでいた一松は、聞こえてきたカラ松の台詞にふんっと鼻を鳴らした。カラ松の演技染みた口調は一松を苛々させる要因の一つである。しかし、演技染みた言い回しではあるが、カラ松は本気で後悔をしていた。目の奥から涙が込み上げてくるのをぐっと堪えて、水槽で縮こまって不安げにカラ松を見上げる無垢な瞳を見つめ返す。

 ワザとではないにしろ、目の前の人懐っこく、か弱い生き物の信頼を裏切り、その小さな体を傷付けてしまったのだ。死んで詫びたくなるほどの罪悪感が湧き上がり、ギリギリと胸を締め付けて苛んだ。しかし、カラ松が死んでも、ラットには何のメリットもないし、逆に世話をしてくれる人間が十四松か母親しかいなくなってしまうのが現実である。死んで詫びるなど、ただの自己満足でしかない。

 カラ松は、先ほど蹴ってしまったお詫びに、ラットにハムスター用のクッキーを与えることにした。



「さっきはごめんな。カラ松Rat……」



 クッキーを差し出すとラットは素早くカラ松の指からクッキーを奪うように取り、もの凄い勢いで食べ始めた。両手でクッキーを抱えて、かじりつき、時々ご機嫌そうに顔を上げて咀嚼する。



「もう、痛いことしないから。本当にごめんな」



 カラ松は心から、ラットに謝った。

 どこか悔いるような、けれど優しく誓うような、真面目な―――カラ松の素の声だった。

 一松は驚いた。

 普段、眠たげに半分閉ざされている彼の瞼がぱっちりと大きく見開かれ、カラ松を凝視している。



(クソ松の野郎、やっぱり普通の声もちゃんと出せるんじゃねぇか!)



 驚きは瞬く間に怒りへと変わった。

 あんなネズミ相手に素をさらけ出すくせに、どうして人間相手にはクソみたいなカッコつけになるのだろうか。不思議でならなかった。

 ラットがカラ松に二個目のおやつをねだるように立ち上がり、カラ松が「今日だけだからな」と二個目を渡す。そして、もう一度「ごめんな」と囁いて、おやつを頬張っているラットの小さな頭を、指のお腹で優しく撫でる。とても優しい手つきである。

 ラットはおやつを食べ終わっても、自分を撫でる指から逃げようとはしなかった。お詫びのおやつを与えられたことですっかり機嫌を直したのか、伸びをしてくったりと寝そべり、カラ松の優しい愛撫を受け入れている。



(流石、人間様のための鼠。飼い主に似て頭がすっからかんだね……)



 先ほど、カラ松に危害を加えられたというのに、おやつを一、二個与えられただけで、機嫌を直すとは何ておめでたい頭をしているのだろうか。

 それとも、いつも自分の世話をしてくれるカラ松が相手だからか?

 酷くつまらない気持ちになったので「チッ」と大きく舌打ちをしたけれど、カラ松は全く気付かなかったらしく、慈しむようにラットを撫で続けている。その横顔は、昔の一松によく向けられていた優しい兄としての顔にそっくりだった。

 ほんの一瞬だけ、胸の奥の方で何か詰まったような重苦しさを感じた。

 今のカラ松が一松に向ける顔といえば、わざとらしいイタイ決め顔か、眉を下げた怯え顔か、困惑、涙目のいずれかであった。

 腹の底からカラ松への怒りや憎悪が沸々と湧き起こるが、一松の理性がそれらの衝動を理不尽なものと断定したことで、今にも暴発しそうな不条理な感情を内面に抑えることに成功する。

 一松と猫。カラ松とネズミ。二人と二匹しかいない空間で、一松は苛々と燻る激情をもて余したまま、ひたすらカラ松とクソ松二号(一松命名)を睨むように見つめていた。しかし、猫が心配そうに一松を見上げてきたので、意識を猫に戻し、「何でもないよ」と優しく頭を撫でつけた。













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