泡沫の長夢
□お兄さんと私 8
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初めて上がったお兄さんの家は必要最低限の物しか置かれてなく、広々としていてどこか寂しげであった。
「とりあえず適当に座っててくれ。なんか飲むか?……って言っても、コーヒーしかないが……」
「コーヒー……」
「ミルクと砂糖はあるから、好きなだけ使え」
私が渋い顔をしたのを見てお兄さんはそう笑うと、キッチンへでお湯を沸かし始めた。私はとりあえずリビングにあるソファへと腰かけさせてもらった。結構ふかふかしていて、座り心地がとてもよかったことに驚いた。
そうして私はお兄さんへとまた視線を戻す。ちょうどお湯が沸いたようでインスタントコーヒーをカップに入れていた。2つ分淹れ終えると、お兄さんがリビングへとやってきて、私の隣に腰かけた。そしてミルクの入った方を私の前に差し出してくれた。
「とりあえず甘くしといたが、足りなかったら追加してくれ」
「ありがとうございます…」
初めてのコーヒーを恐る恐る一口飲む。ふわりとコーヒーの香りが口の中に広がる。ミルクと砂糖のおかげか思ったよりも苦くなくて飲みやすかった。
「…………さて、何から話すかな」
お兄さんが自分のコーヒーを一口飲んで、ぽつりと呟いた。
「……まずは、俺の名前からかな」
お兄さんはそう言うと、私の前では決して取ることがなかった帽子を徐にはずした。
(あ、れ……?)
帽子の下から現れたのは、燃えるような赤い髪。真っ直ぐと私を見つめるのは、青紫の瞳。初めて見た、帽子の下のお兄さんの素顔。だけどどこか既視感のようなものがあって、ずっと前にどこかで……そう、ここではない何かで見たことがあるような、
「…………モデルの……アヴィ……?」
そう、だ。前にアキちゃんが見せてくれた雑誌に載っていた人だ。あのモデルにそっくりで、いやそっくりというより雑誌からそのまま本人が飛び出してきたようにしか思えなくて。
「……お兄さんは、いったい……」
ただ帽子をとっただけなのに、お兄さんがまったく知らない人になってしまったようで頭が混乱する。私は震えそうになる声で尋ねた。
「……俺の名前はアヴィ。モデルをやっている」
「…………」
「……悪かったよ、今までずっと黙ってて。……どうしても、お前に知られたくなかったんだ」
お兄さんのその言葉が、まるで私を拒絶しているみたいでズキリと胸が痛んだ。私は顔を俯かせて膝の上で両手を握りしめる。そんな私の頭をお兄さんが優しく撫でてくれる。いつもはくすぐったく感じる優しさが、今の私には痛く感じた。
「俺がモデルを始めたのは、今のお前よりも若い時だった。友達と街を歩いていたら声をかけられてな。ただの興味本意で始めたんだけど、結構楽しくて……だんだんと、モデルの世界へとのめり込んでいった」
「……」
お兄さんがポツリポツリと話し始め、私はそれをただ静かに聞いていた。
「俺が疑問を抱き始めたのは、高校を卒業する辺りになってからだ。その頃にはもうモデル業が本格的になっていて、学校も出席日数ギリギリでしか通えなかった。その頃から周りの視線が……俺を、モデルのアヴィとしてしか見ていないんじゃないかって思い始めていた。……いや、実際にそうだった」
「……」
「誰も本当の俺なんか求めてなくて、モデルとしてのアヴィしか必要とされてなくて……俺の存在ってなんなんだろうなって、ずっと思っていた」
「……お兄さん……」
お兄さんが吐き出した思いは、私には想像がつかないほど、ずっとずっと重いものだった。言葉を失う私に、お兄さんが小さく笑かけた。
「そこにお前が現れた時は本当にびっくりした」
「え……?」
「雑誌の表紙も何回かやってて、自分でもトップモデルだとそれなりの実感があったのに、まさかまったく俺に気づかない女の子がいるとは夢にも思わなかった」
「ご、ごめんなさい……」
「けど……それが、嬉しくもあったんだ」
予想外の言葉に、私は目を瞬かせる。
「モデルのアヴィじゃなくて、ただのお兄さんとして接してくれるのが嬉しくて…………お前に、アヴィだと知られるのが、怖かった」
「お兄さん……」
「俺の正体を知ってしまったら、お前も俺から離れていってしまうんじゃないかと考えたら…………どうしても、言い出せなかった」
「…………」
モデルという輝かしい世界の裏で、この人はどれだけ苦しんでいたのだろう。どれほどの辛い思いをしたのだろう。それを思うと、私はたまらなく胸が苦しく締め付けられていた。
「……なんでお前が泣くんだよ」
「え……」
お兄さんに涙を拭われて、私は初めて自分が涙を流していたことに気がついた。
「まったく……世話がやけるな」
「…っ、だって……お兄さんが、泣かないから……」
「は…?」
「お兄さんが、そんなつらい思いしてたなんて知らなくて……いつも、笑ってて……つらそうな顔をしないから、わからなくて……」
「これでも一応プロだからな……そんなもの、表に出せねぇよ」
「お兄さんが、泣かないから……私が泣くんです……」
「なんだそれ」
お兄さんはこんなときでも、困ったように笑うだけだった。それでも私の涙をすくってくれる手は、とても優しくて、あたたかくて、私はますます涙が止まらなくなってしまった。
「お兄さん…、」
「ん…?なんだ?」
想いが溢れすぎて、うまく言葉にできなかった。お兄さんはやれやれと呟くと、私を抱き寄せて慰めるように頭をポンポンと撫でてくれた。
つらいのは私じゃなくてお兄さんのはずなのに、涙は、想いはなかなか止まってはくれなかった。
「お兄さんは、お兄さんだよ……いつも一緒にいてくれて、時々いじわるで、でも本当はとても優しくて、あたたかくて、一緒にフラフのお世話をしてくれる……大好きな、お兄さんだよ」
「……」
「……私は、お兄さんといたい……モデルのアヴィなんて、知らなかったけど……でもお兄さんと一緒にいたい…、いつも一緒にいてくれた、お兄さんと……」
「姫……」
私を抱き締めるお兄さんの腕に、さらにぎゅっと力を込められた。
「……ただの俺がいい……って、そう言ってくれるのか?」
「だって私、モデルなんて知らないもん……」
「はは、そうだったな。……お前は、そういう奴だったよな」
「お兄さん……」
「ありがとうな、姫……それだけで、俺はちゃんと存在していける」
頬に手を添えられて顔を上げられる。お兄さんは優しく微笑んでいた。その眼差しに囚われてしまったかのように、目を離せなかった。
そしてそのまま吸い寄せられるように、お兄さんと私の唇が重なった。
「んっ……!」
反射的に、目を閉じる。お兄さんは何度も何度も、啄むように唇を重ねてきた。やがて唇が離れると、私はまたお兄さんに抱き締められていた。
「お、お兄さん……?」
「……もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
「…………」
トクン、トクン、とお兄さんの胸の音が聞こえてくる。とても心地よくて、安心できる。お兄さんもそう思ってくれてたら、いいのに。
そう願いながら、そっとお兄さんの背中に腕を回した。