泡沫の長夢

□お兄さんと私 1
1ページ/1ページ




最近、私の住むマンションにふわっふわの毛並みを持つ犬が迷いこんできた。野良犬みたいで首輪はなく、でもとても人懐っこいこで、すぐに私になついてくれた。柔らかくて真っ白で雲みたいだから、私はフラフと名づけてこっそり世話することにした。
それ以来、朝と夕方にその子にご飯をあげて遊ぶのが私の日課になっていた。……そんなある日のこと。


「よしよし。お前、結構人懐っこいんだな」
「わん!」


帽子を被った見知らぬお兄さんが、フラフと一緒にいるところを目撃してしまった。今まで誰かにフラフのことを気づかれることがなかったから、私は驚いて固まってしまっていた。


(どうしよう……)


私が暮らすこのマンションは、当然ながら動物を飼うことが禁じられている。もし私がフラフをこっそり世話していることを知られてしまったら……フラフはどうなってしまうんだろう。
不安ばかりが広がっていくなか、フラフが私に気づいて駆け寄ってきた。お兄さんも、私がいたことに気づいて驚いたように目を見開いていた。


「わんっ、わんっ!」
「あ……ご飯だよね。ちょっとまってて……」


私はお兄さんのことを気にしながらも、フラフを待たせるわけにもいかないので持ってきたご飯をフラフの目の前に置く。お腹を空かせていたフラフは勢いよく食べ始めた。そんなフラフを撫でながら、私はお兄さんをチラリと見る。
目深に被った帽子で顔を隠しながら、こちらを一切見ようとしなかった。……なんだか、怖そうな人だな。でも、もし誰かにフラフのことを知られてしまったら、追い出されてしまうかもしれない。私は意を決してお兄さんに声をかけた。


「……あ、あの……」
「……なんだよ」


冷たく返された声にビクリと体が震える。それでも、私は逃げ出すわけにはいかなかった。


「あの……この子のこと、どうか黙っていてもらえませんか……?とても大人しい子で、うるさく吠えることもありません。他の人にも迷惑かけませんから……だから、お願いします!」


私はぎゅっと目を閉じて、お兄さんに勢いよく頭を下げた。しばらく沈黙が続く。私は恐怖で震えそうになる体を懸命にこらえていた。やがて小さく吹き出す音と笑い声か聞こえてきて、私は恐る恐る顔をあげた。


「まさか、そう来るとは思ってなかったな……」
「……?あ、あの……?」
「あぁ、悪い。俺を知らない人がいるとは思わなかったからな」
「……??」


お兄さんの言葉に私はただただ疑問符を頭に浮かべていた。どこかで会ったことがあるのかな、とじっとお兄さんの顔を見つめてみるけど、やっぱり見覚えはない。……というか、よく見るととてもイケメンなお兄さんだった。こんなにかっこいい人なら一度会ったら忘れられない。
お兄さんがポンと私の頭に手を伸せた。何気ない行為だけど、なんだかむずかゆくて、恥ずかしい。


「黙っといてやるよ。なんか俺にもなついてくれてるし」
「ほ、本当ですか!?よかったぁ……」
「わふ?」


いつの間にかご飯を食べ終わったフラフが私の足元で首を傾げていた。私はフラフを抱き上げてふわふわの体に顔を埋める。


「お兄さんがこのこと、黙っててくれるって!」
「わふ?」
「もう……フラフは呑気だなぁ」
「……フラフ?そいつ、フラフって名付けてるのか?」


お兄さんが少し驚いたように私に尋ねてくる。私はそのことに疑問を抱きながらこくりと頷いた。


「ふわふわで雲みたいだから、フラフって名前つけたんですけど……」
「……ははっ!そうか、そうだよな!」
「え……?」


急に笑い出したお兄さんに、今度は私が驚いていた。


「俺もそいつのこと、フラフって呼んでたんだ。ふわふわで雲みたいだから」
「……!」


これはなんていう偶然なんだろう。二人で示し合わせたわけでもないのに、同じ名前をこの子に名付けてたなんて。


「お前、名前なんていうんだ?」
「あ……姫です」
「姫か……。時々、俺にもフラフの世話させてくれよ」
「え?あ、は、はい!」


お兄さんは私の頭をもう一度撫でると、じゃあな、と言ってマンションの外へと向かっていった。
私はポカンとしながら、彼の背中を見送っていた。そして撫でられた箇所にそっと手を当てる。なんだか、触れられた部分が熱を持っているように感じる。
腕の中にいるフラフはやはり呑気で私の顔をペロリと舐めていた。


お兄さんの名前も、彼が実はすごい人気のトップモデルだということも、そして私の心に芽生え始めた感情も、この時はまだ何一つ気づくことはなかった。




[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ