負けることは死を意味する、そういう覚悟を持っていた。けれど、その覚悟通りの結果にはならなかった。人間をやめるという、もう後には戻れぬ選択をした男は常識の枠に収まらず、いつだって予想の斜め上をいくのだ。

 承太郎は吸血鬼の王に敗れたが、その冷たい手によって、生きたまま捕えられた。そして今も生かされている。



 まさに囚人のごとく。乱雑に腕を掴まれ連れて来られた所が悪の帝王の根城だった。そこがDIOの部屋だと、どうして分かったのかというと、DIOが扉を開けるとすぐに、その内装を確認したからだ。広い。家具が少ない。清潔感は保たれている。しかし窓がない。暗い。蝋燭の明かりだけが光源の、闇が広がる味気ない部屋など、太陽と仲の悪いこの男のものに決まっている。そこへ一歩、入るやいなや、承太郎は突然解放された。無造作に腕を離される。ぶん投げられた、と、言い換えてもいいだろう。おかげでいきおい余ってたたらを踏む。なんとか転ぶことだけは耐えたのだが、こんな些細なことでもDIOとの間の圧倒的な力の差を思い知らされて、奥歯を強く噛み締めた。人間と吸血鬼、やはりスタンドなしにやり合うには厳しいらしい。だがそのスタンドにおいても、ザ・ワールドの能力は未知のもので、虜囚となった自分の前途は多難だ。と、よけながらもDIOを睨もうとする。

 「突っ立っていても事態は好転しないぞ。奥に来い」

 そんな承太郎を尻目にDIOは軽く喉を鳴らし、すたすたと、先に部屋奥へ進んでしまう。友人を部屋に呼んだかのような気軽さだ。それだけではない。DIOは歩きながら袖を抜き脱いだ上着をベッドサイドの卓へ適当に置いていく。ずい分と慣れた所作に見えた。これが習慣、外出から帰った後のいつもの流れなのだろうか。肩をぐるりと回して息を吐く姿も自然体で、着る意味があるのかと聞きたくなるほど肌の露出が多いインナーは確かに身軽そうだった。

 「外へ出たのは久し振りでな」

 最近までとある団体客を待ち構えていたから、と、一瞥をくれるだけで、承太郎が完全に体勢を整えて向き直り構えてみせても、DIOはマイペースに行動する。額当ての役目なのか、前髪を上げておくための物なのか、単にファッションとしてのアクセサリーなのか、この男のセンスはよく分からないが、目立ちながらも妙に似合っていたハート型のサークレットを外し、これもベッドの横に置く。

 「ちと疲れた……なんて言うと、ジョセフよりよほどじじくさいか?」

 ふふ、と付け足される笑い声には意図がある、と承太郎は気付く。DIOは、こちらの緊張を緩和させるため、一方的に話しかけ、その後には笑って見せている。これがDIOの用いる手段、甘い罠へ誘う巧みな話術だろうか。けれどそれにしては、『普通』過ぎやしないか。疑い出したらきりのないことを考え出せば、図ったように、

 「承太郎」

 DIOとぴったり、目が合った。

 「今さらお前の前で演技をしようとは思わん」
 「なら早く行動に移ることだ。殺したいんだろう、ジョースターを」

 だから刺客を放ってきた。花京院が来襲した時、承太郎はまだ、日本の一学生だったというのに、初めてのスタンド戦で殺されかけた。全ては『DIO』の差し金だ。

 「事態は常に動き移ろうもの、お前の戦う姿がお前の運命を変えたと思え……行動ならわたしはもう取っている。第一印象をマイナスからゼロにするための、な」
 「印象?」
 「お前の、わたしへのそれは歪んでいる。祖父やお仲間からなにを聞いたかはだいたい想像がつく。なるほど、確かにそれらはわたしが行ったことで否定しない。だが、聞いてきた情報が目を曇らすということも、あるのではないか?」

 その目にわたしはどう映る、問いかけながら、DIOはまたひとつ身に纏うものを取る。今度は首のチョーカーだった。DIOの首には、子供が慣れぬ針と糸で人形同士を無理やり繋いだような、ぎざぎざの傷痕が目立っている。それこそがジョースターとDIOとを結ぶ因縁だ。

 「てめぇは敵だ」
 「敵だった、だろう……承太郎は、わたしに敵意がないことに既に気付いている」

 頭を振る。

 「おれを分析するな……てめぇがなにを言おうが実際、おれの母親はスタンドで死に……危機に陥っている」
 「その件についても説明がある……だから尾っぽを立てるな。お前も、好きに格好を崩せ」

 一度、くっ、と髪をかき上げれば、その場に現れるのは承太郎の知らないDIOだった。別人に変身したというほどではない、顔の造作や体の形が変わったわけでもない。けれど、帝王じゃあなくなった、と思ったのだ。

 「話をしよう」

 この瞬間、承太郎は倒すべき標的を見失っていた。

 百年以上を生きる吸血鬼は、しかし、二十を少し超えたぐらいの男。己のためだけに人の命を奪い続けてきた敵は、笑うと鋭過ぎる犬歯がちらりと覗く、自分よりちょっと年上の、大人の男。DIOが言った通り、今この目に映るDIOの姿が、承太郎を動揺させた。どくん、と、鼓動が鳴る。どうして、胸が騒いで疼く。正装を解き、髪を下ろしただけなのに。でも、考えてみれば、今日初めて会っていきなり戦闘に入った、戦いの中でしか見たことのなかった男だから。

 知らないことの方が断然多くて、まだ見ぬ面もまだいっぱいあるんじゃあないか、と。

 DIOの言葉を真に受けたつもりはなかったが、承太郎はポケットに手を突っ込んで、構えを解いていた。仁王立ちして、威圧的に見下ろす。

 「そもそも敵意のあるなしなんざどう証明するんだ」
 「疑り深いな。ジョセフ譲りか?」
 「誰かさんが次々と送ってくれたからな、人の裏をかくような刺客をよ」
 「だがお前達は戦うことで成長できたじゃあないか。承太郎、良家の子息がけっこう手癖も悪くなったようだしなァ……やめておけ。飛び道具なぞ効かない」

 どこからくすねてきたのだか、と苦笑するDIOに正確に指摘され、ポケットの中で握っていた鉛玉、拳銃の弾丸を手放した。

 「見え過ぎだぜ」
 「ああお前の肌着の下までよく見えるぞ……なんてな。胸を隠すな。嘘だ」

 なにが胸だ、心臓をガードしただけだ。だけど頬が少し熱くなっている。DIOがそれを見逃さず微笑む。なにもかもを見透かされている、魂を賭けた勝負でも崩れなかったポーカーフェイスを完全に読まれている。承太郎が顔を顰めると、DIOの目にはいっそう愉快そうな色が浮かぶ。嘲りではない。純粋に、面白がっている眼。ますます削がれていく、戦おうという気力。

 首の辺り、いまだ傷痕の残る繋ぎ目を軽く擦りつつベッドに腰掛けているDIOは帰宅したサラリーマンが寝間着に着替え終わったかのような、楽なスタイルですっかり寛いでいる。それに対し、承太郎はひとり、気を抜けず、けれど常時張り詰めてもいられず、中途半端なまま立ち竦んでいる。

 「来い……いや違うな。えーと……おいで」
 「犬猫じゃあ、ねえんだぜ」
 「もちろん、お前は畜生と違う。お前の偏見を外すには、とこれでも色々考えて、ひとまず優しくすると決めたのだ……仕方が、いまいち分からんのだが、おいおい慣れていくだろうよ」

 聞きたいことは山ほどあるし、見つめ合っている場合じゃあない、戦い続けなければならない、という焦燥感も持っている。

 「ほら、ここなど空いているぞ。座ったらどうだ」

 共に突入した仲間は、引き離されてしまったが、みんな無事なのか。さっきも言ったけれど、母のタイムリミットはもうすぐだ。早く、早くこの男を『殺さなければ』。この、空いたベッドのスペースを叩いて示す、DIOを。

 「まだ駄目か?」

 頑なに動かないでいると、DIOが嘆息する。

 「まァ急くことはないのだがな……たとえば、自動車、あれは速くていいが、情緒がなくていけない。そう思わんか」

 承太郎の焦りを無視した、ように見えてその実、リラックスしろよ、とDIOの目は言い続けている。駄々をこねて立っていても、この温い誘いは永遠に続くのではないかと思った。戦って勝つのは厳しく、一時撤退も困難、仲間の安否も分からない……今はDIOとの話に乗るしかなさそうだ。殺しへの逡巡をしまい込み、承太郎は新たな覚悟を決めた。命を奪われる覚悟ではなく、尊厳を踏みにじられる覚悟を胸に、ずん、と向かっていく。一度決断すれば行動は早い。DIOの隣、柔らかなベッドにどかりと座り、体を預けた。ここで誤算がある。今まで泊まってきた硬いマットの方がマシというぐらいに柔らか過ぎて、安定感のないベッドだった。なにせDIOと戦った後だ、ひどく疲れていたこともあり、傾いでしまった承太郎がとっさに掴むのは当のDIOの、剥き出しの肩。

 「あ」
 「ン」

 滑らかな皮膚はしっとりと手のひらに馴染み、体温も自分のそれと変わらない。人の肌……男の、肌だ。

 「わるい」
 「構わん」

 とっさに謝りながら、素早く手を引いたがDIOは残念そうな顔をする。どこまでが嘘なのかが読めない。しかしこれ以上自分の内側を悟られてはまずい。なんでもないことのように、平静に。拳を握り、開き、それを繰り返してたった今の感触を消そうとしながら承太郎は呑まれないためにも会話を続けなければ、と舌を動かす。

 「てめぇの時代は馬車だったか」
 「砂利道ではよく揺れた。時々、あの振動が懐かしくなる」

 遠い目をする男は、自ら望んで、永久を生きる化物となったのだ。勝手な物言いではないか。ああそうだ、こいつは勝手な男なのだ。承太郎の怒気を感じたのかDIOが黙る。ベッドの上、隣同士に座りながらも互いに前を向いて無音の時間を過ごす。

 もう、限界だ。

 「そろそろ腹の内を明かさねえかDIO。まだはぐらかすってんならその腹掻っ捌くまでだぜ」
 「空条ホリィのスタンドをどうにかしてやる」

 承太郎は、激烈な反応を見せなかった。じっと正面を見続けていた。表情を変えず、DIOの方へ向かないまま、DIOの言ったことを反芻していた。どうにかとは、どうするのだ。そんなことをして得る、DIOのメリットはなんだ。

 「仲間の命も取らない、あちらから向かってこなければ、だがな……もっと、お前が望む悪のように振る舞ってやろうか……大切な者を助けたければ大人しく言うことを聞いてもらおう、とでも言えば受け入れやすいか?」

 確かに効果的だ……助けたければ……その台詞は承太郎から身動ぎを奪うのに十分過ぎた。びくり、と、体が跳ねる。承太郎は睫を震わせた。DIOの手が頬を撫でている。頬だけではない、一箇所に留まらずさらに動いていく。頬の後は親指で唇をなぞり、頸動脈の上をも通った。急所を掌握された感覚に首と言わず全身粟立つ。

 「く」

 承太郎は、男の手に撫でられているという現実を耐えている。母の命、仲間の無事、言うことを聞け……DIOの声が頭を巡るのだ。敗者が悪とは思わないが、敗者に自由はない。

 引き換えに求めてくるものは、なんだ?

 「どうだ、承太郎」

 今や、承太郎の胸にまで下りているDIOの手に、一度、一度だけ、目を瞑る。広がる暗闇の中で家族と友の姿を見ることができた。それで、いい、と思った。平気だ、と思えた。彼らが見えるのなら大丈夫だと、光明が傍に在るのなら過酷な苦境だろうと、自分を殺してさえも戦っていける、と、心が鎮まった。次に目蓋を持ち上げた時には、どんな条件でも呑もうという決意が固まっていた。承太郎はDIOの手を自分から握って、逆に臍の下へと誘導した。真っ向から見つめる。

 「なんでも言ってみろ、逃げたりしねえ」

 ただ、顔は青褪めていたかもしれない。手も微かに震えていたのだろうか。情けないと思われるだろう、今度こそ嗤われる。承太郎はそう思つつなお真剣にDIOの遊びに付き合おうと、返事を待っていた。のだが、

 「ンン?」

 承太郎の腹に触れている手と、承太郎の悲壮なる決意に満ちた顔と。交互に見るDIOはきょとんとして、それから、

 「ああ!」

 片手を承太郎に握られているDIOに代わり、ぽん、と手を打ったのはそのスタンド、ザ・ワールド。最強を自負する己のスタンドにそんな気安いことをさせてみせたDIOは承太郎の手を振り解いて、少し距離を取る。戸惑ったのは承太郎だ。自分から触っておいていきなり離すとはどういうことだ、わけが分からない。

 「おい、てめー」
 「違う違う、そうじゃあない、そこまで求めん」
 「う、お」

 かと思えば、いやらしさのない手つきで承太郎の肩に手を回してくる。抱き直し、抱き寄せ、顔を近付けて、涼やかに笑った。

 「これは悪かった、怯えさせたか」

 DIOが肩を叩き、いたずらっ子のような笑顔で囁く。

 「このDIOは普通に接したつもりでも、日本人のお前には過度だったようだ」
 「やめろ、くすぐってえ」

 耳の裏に吐息が掠めてたまらない。片目を閉じて首を竦めればDIOがあらためて納得したように頷いた。この程度の接触でそんなになるんだもんなァ……身を固くするのも無理はない、と。

 「安心しろよ。お前を支配してどうこうする気はない」

 全身を覆っていた危機感が、ふと軽くなった。

 「しない? なにも?」
 「しない。強要もしない。協力は、欲しいが」

 ほう、と深い息を吐く。紛れもない安心を、していた。

 「コックをしゃぶらされる……とでも思ったのだろう?」
 「え? なんで蛇口が出てくるんだ?」
 「え?」

 唐突だなと首を傾げる承太郎にDIOも同じく目を丸くする。その反応に、なにか、嫌なモノを覚えた……頭の中で、映画やコミック、祖父から学んだスラング辞書を引っ張り出してしらべた承太郎が少しずつ露わにしていく……恥ずかしいという感情が多分に込められた表情。呼応するように、DIOの赤かった両眼が金色に変じて煌めいていく。

 「ふ、はッ……ははは!」
 「そ! んなッ……誰が思うか、そんなこと! 馬鹿を言ってるんじゃあねえぜ!」

 もっと漠然とした想像は、してしまったけれど。

 「真っ赤じゃあないか……よしよし、どうどう。分かった、この手の冗談は控えることにしよう」

 承太郎はスタープラチナでの力を借りてすぐ傍の笑い声を遠ざけた。跳ねのけられてもDIOは気を害した様子もなく、スタープラチナにも笑みを見せる。

 「お前の本体に話がある。大事な話だ」

 そしてもう一度、承太郎に触れた。壊れものを扱う丁寧に掬い上げた手の、甲に、艶やかな唇が……承太郎が止める間も、ないまま。触れて、離れて、顔を上げたDIOに、

 「わたしと付き合わないか、承太郎」

 なにに?

 そんな風に呆けることさえ憚られる、生真面目な目で見つめられる。



 がばりと起きて、荒い息を吐く。自分の状況と飛び込んでくる景色を寝惚けた脳味噌で必死に理解しようとする。座っているのは木製の窮屈な椅子。今まで頬をつけていたのは同じく狭い机。見えるのは黒板。チョークで書かれた文字は受験に関する根性論。がやがや喧しいのは帰り支度をする同級生。ここが学校で、教室にいて、帰りのホームルームまで終わったことを、知る。

 「なのにあんなもの見るのか、おれは」

 体は故郷に在りながら、心が、まだ、戻ってきていないのだろうか。あれほどはっきりとした夢を見るほどに。承太郎は手の甲をさする。

 学校から帰ってくると、いつもは覗く習慣もないのだがなんとなく、郵便受けに手が伸びていた。どうして、とか、なにが気になるんだとか、自分でも不思議に思いながらもそこへと吸い寄せられていた。

 表面上の自意識を越えた、まるで不可視の腕に誘われるような感覚だ。以前、聞いた覚えのある、引力という言葉が思い浮かぶ。そこにくっ付いて、それを言った男の顔も脳裏に現れた。途端、腹がふつふつと煮え立ってくる。嫌いだ。運命も宿命も、その引力というものも、そんなものに振り回されようという者達も、そんな言葉を自分に語ったあの男も、大嫌いだ。何事もそれで片付けられるのは嫌だ。全部関係ない。自分の行動と、それによってもたらされる結果は、まさしく自分が選び決めた末のものだ。だから、今も、こうするのは紛れもないおれの意思だと思って、一気に蓋を開ける。

 生来の明るさで近所付き合いも得意の母は郵便配達員とも仲が良い。庭掃除中に彼らが訪れて手渡しで受け取ることも多いし、そうでなくても父からの便りを楽しみに日に何度か確認することを知っていた。夕方には『なにもない』のが普通のはずなのだ。が。突っ込んだ手の、その指先に触れる、紙の感触。目でも確かめてみれば中にはやっぱり入っていた。一通の手紙が、届いている。

 町内会の報せや電気代の請求書や妙な健康食品のカタログではなくそれは確かに手紙だった。しかも国外から送られている、正式なエアメールの手順を踏んで東京まで辿り着いた、黒い封筒。宛名と差し出し人を探して裏返す。単なる色になんの力もないとは思いつつ、こんな黒一色だと明るいニュースは期待できない。海の向こうには父はもちろん祖父母や友人達も暮らしているが、彼らはこんな味気なくて不気味なものを寄越すまい。何より、自分がここを開けこれを手にしたこの事実が、ひとつの予感を抱かせる。運命も宿命も引力も大嫌いだが、そういうものが存在していることについては否定しきれない、そんな予感。

 『なァ』

 声が響く。最後には一言だって掛けなかったくせに。今になって聞こえ出すだなんて。我ながらひどい幻聴を患っている。

 『なァ承太郎』

 呼ぶな。

 裏を見れば自分の名前。自分宛の、手紙。

 『仮に。そう、もしもの話だが……もしも、わたしが』

 やかましい。今さらなんだってんだ。

 頭に浮かぶ影にはそう言いつつも。差出人の綴りを見れば、眉を顰めたり目を見開く暇さえもなく。承太郎はその日のうちに日本を飛び立った。



 吸血鬼を倒すという、困難な道を目指した五十日の旅。予想以上の過酷さだったが、今振り返ると楽しくもあった。みんなが戦い、みんなで笑った。あの経験が自分を強くしてくれたと思っている。大切な思い出として生涯抱えていくつもりだ。だがそれ以降の出来事は、そうじゃあない。五十日を経ての延長戦は、吸血鬼の館で生活したあの日々は、好い記憶なんかじゃあない……祖父にも打ち明けていない、初めての交際相手は、ろくなやつじゃあなかった。



 「天国を目指しているんだ」
 「無理だろ。悪党」

 間髪入れずに返すと、DIOはしかめっ面をつくる。あ、と思った時には本を取り上げられてしまった。なんという横暴さだろう。返せ、と追うが、もともとわたしのものだ、と一刀両断される。正論だった。

 「天国、とは、お前の想像するような花園じゃあない……スタンド能力の延長線上にある……それは世界の奇跡だ」
 「てめぇのためだけの、救い、だろう」

 晴れて付き合い始めてからもまだまだ懐疑的な態度を貫く承太郎に、けれどDIOは甘い。時を止めて一瞬でにじり寄り、わくわくとした顔で指を立てた……そう、DIOは自分のスタンド能力までを明かしたのだ。この程度の隠しごとがあっては付き合えまい、と。

 「そこへ行くには必要なものが沢山あってな。信頼できる友人まではつくれたのだが、こいび……プライベートのパートナーは上手くいかなかった」
 「それも、必要なのか」
 「要るかもしれないし要らないかもしれない」

 恋人、と呼ばれることを承太郎は嫌がった。DIOは、人ではない。それに、恋、それは自分達のあいだにはないものだ。屁理屈だとDIOは呆れていたが、屁理屈でもなんでもやなものはやだ。だからDIOが折れた。以来、『パートナー』という呼称を使っている。けれどDIOはこんなことを言う。

 「恋をしたい」

 またそれか。承太郎は聞き流したいのだが、また肩をがっしりと固定され、強制的に聞き上手とさせられている。どうしていちいち耳元に唇を寄せるのだろう、わざとか、無意識なのか? 癖なのか? そう思いながら、時々きわどいところにかかるDIOの呼気にその身をふるりと震わせる。

 「ジョジョが前にこう表現した。素敵な好奇心、と。おい好奇心だぞ。扉を開けるのには、もしかしたらそいつが、鍵となるんじゃあないか?」

 昂揚しているのだろうか、DIOの指が爪ごと肉に食い込んでくる。もちろん痛いのだが、それよりも、DIOの輝く横顔が眩くて、気になった。

 「だからって、なぜおれなんだ?」

 気になるのだ、そこがずっと。

 「このDIOにとって女は全部餌に見える」

 その答えは、承太郎を失望させた。そして失望したことに、胸が痛むのだ。

 「だったら……他の野郎を当たりな」
 「他などない……お前と戦って、疼いたのだ、ここ、が」

 顔を背ける承太郎。追うDIOは、顎を掴んで引き戻す。ここが、と手で示すのは自身の胸、心臓のある場所。

 「それが……素敵な好奇心?」
 「そうじゃあないか、と、わたしは思う」
 「阿呆らしい……やっぱり、てめぇは、ばかだ」

 得意げな顔に向かって冷めた眼差しを向けてから、DIOがなにか言う前に素早く横になる。もう寝るのか、と声が掛かり、寝る、と返す。もう、と言うのなら、もう夜も遅かった。吸血鬼の生活に合わせていたら自律神経などあっという間に狂ってしまう、ということを理由に、背を向けて眠る体勢に入る。背後でDIOの動く気配がしてちょっと緊張したけれど、DIOは承太郎の頭を一撫でするだけだった。

 「おやすみ。よいゆめを」

 おやすみ、と硬い声で返す承太郎は胸元のシャツを握っている。自分の、疼く胸を押さえ、抑えていた。



 この地で過ごした時間とはたった数十日。奇妙な感覚だが、砂埃混じりの熱風や人々の纏う香水の匂いにいたるまで懐かしかった。既に開いている門を通って、太陽が眩しい空を見上げる。高い青空では門番がぐるぐると、大きな円を描いて飛んでいる。持ち前の、優れた視力によって自分の姿も見えているだろう。上から氷塊が降ってこないのを確認して、承太郎は歩き出す。館の中を目指して侵入する。優秀なる門番は承太郎が扉の前に立つまでついぞその役目を果たさなかった。あの時と同じように。

 「よくぞお出でに」

 来ないかと思っていましたが、と呟く執事の慇懃無礼な態度までもが懐かしい。承太郎にはこの館の全てに思い入れがある。この長い通路も、と、館の執事であるテレンスの後を追いながら承太郎は思い出している。



 いつからだったか、月の明るい晩は一緒に歩くようになった。外で散歩する代わりとでもいうように永遠に続く通路を、目的もなくゆっくりと。違う。目的ならあったのか。部屋では拳が出てしまうことがある。ベッドの上だと、空気が張り詰めた。DIOは普通に接してくるのだが、主に承太郎が変に緊張してしまった。落ち着いてまともに話をするには、涼しくて暗くてほんのちょっぴり明るい、この通路がちょうどよかったのだ。こういう場で、差し込む月光を眺めたりして、別に相手を見つめることもないままに、何気なさを装って話しかけたし話しかけられた。見つめ合うことが恐かったのだと、思う。二人ともそれほどに未熟だった。まともにそういう関係を育んだことのない、ガキ同士だったのだ。そんなことだから、肝心の、会話の内容はもう覚えていない。ただ、初めて交わしたものは今でもしっかりと思い出せる。

 「なにしようってんだ」
 「聞くな」

 制止も躊躇も、DIOに制された。素直に、大人しく身を任せればDIOはそつなく器用に接近する。学帽のつばなど障害にならなかった。寸前、DIOが閉じかけた目をまた少しだけ、開く。月より明るい金色には『空条承太郎』がめいっぱい映っていた。

 「逃げるなよ」
 「逃げねえよ」

 聞くなと言ったやつが、聞くな。

 触れ合う唇がどんな感触だったか、鮮明に覚えている。口紅を塗ったように艶やかでありながら意外と乾いていて、だけど思い切ってくっ付けると、ちゃんと中はぬかるんでいると分かった。そして……、

 「熱い」
 「そんな感想を貰ったのは初めてだな」

 普通なら歓喜して涙を流すのだが、だなんて、わざわざ他の相手を匂わせる物言いをする、そんなDIOが腹立たしい。

 「悪かったな」
 「今までのはおれにとってキスじゃあなかったということだ」
 「なんだそりゃ」
 「だから、ううん……お前とするのは快楽を得るためではなくて……説明させるなこんなこと」

 声は冷たく、顔も不機嫌そうなDIOは承太郎の息を封じる。いつもと同じ横暴な態度と裏腹に、口を開けと言うように唇を優しく舐めるDIOへ、承太郎も応じた。手を繋ぐより先に、一足飛びしてしまった夜。



 「無事に届いたようでよかった」

 放っておけばどんどん深く過去へと沈んでいく意識を、テレンスの声が引き留める。まさか夢にも思わないだろう、後ろをついて歩いている男が、キスの感触を思い出しているだなんて。これのことか、と承太郎は懐から黒い封筒を取り出す。

 「送るのが礼儀かと思いましてね……ああそうだ。ヴァニラ・アイスには会わない方がいいですよ。あなたにひどく怒っている。殺されるかも」
 「おれのせい、なのか。これは」
 「自覚があるならなにより」

 あなたがあの方を変えたのは間違えのないこと、とテレンスは淡々と意見を述べる。変えたつもりなんかない。むしろ変えられたんだ……反論は飲み下した。

 「お前はどうなんだ。おれが憎いか」
 「あなたのせいで稼ぎの良い仕事を失った、それだけのことだ……いいんです、別に。仕返しもできましたし」
 「仕返し、おれへのか」
 「どうでしょうね……さあ、こちらへ」

 促されて、最後の階段を上ればそこは館の主の寝床がある。あるはずだった。

 封筒の中、手紙には一言だけが書かれている。

 我らの帝王が死んだ、と。



 「わたし達は相性がいいな」
 「どこが?」

 DIOの言うことすること為すこと全てが唐突なのには慣れたがさすがに聞き捨てならないことだ。嫌味でもなんでもなく心の底から、『はあ?』という顔をする承太郎にDIOは『ふふん』と鼻で笑う。寝っ転がって本を読んでいたDIOが読書を中断してまで手招きをするので、その横に寝そべった。欠伸が出る。警戒も緊張も、知らぬ間にどこかで落としてしまっていた。

 「いいかァ? まずは」

 DIOが順に指を折っていく。

 「わたしが眠る時お前はもう起きていてわたしが寝付くまで傍にいる」
 「低血圧なんでな。起き抜けは動けないんだぜ」
 「わたしが起きる時、お前もまだ起きている」
 「あんまり早く寝ても時間がもったいねー」
 「あとお前はキスが好きだろう。わたしも好きだ」

 言った時には横から掠め取られている唇。そこに承太郎も笑みを描く。

 「『本好き』で締めてほしかったんだが……で、たったそれぐらいで相性の良し悪しなんざ引っ張り出すのか」
 「ああ。わたしはそう思っているが……お前は違うのか?」
 「おれは……DIOと」

 DIOといて、どう思う。なにを感じている。世間一般でいう恋人、否、パートナーとやらがどんなものかは知らないけれど、一緒にいて、気を遣わず、安心する存在を理想というんじゃあないだろうか。承太郎の中でDIOは、マイナスではない。ゼロでもない。気持ちはもう、とっくに向いている。

 「てめぇが人間をやめていなけりゃあな……そしたら」

 そうだったなら、承太郎はDIOのことを呼べただろう、恋人と。足りないのはもはや、『人』の部分だけだった。

 「そうしなきゃあ承太郎とは出会えないじゃあないか。餌ももう殺していないぞ。この上を求められてもなァ」

 あのDIOにしては最大限の譲歩をしている、と承太郎も思う。なにに対してか、なんのためにか……承太郎と共にいるために誠意を見せている。

 「生まれた時代が違っても、会いたいと思ったら巡り巡って会えるもんなんだぜ」
 「引力によってか?」
 「てめーも情緒がないじゃあねえか」
 「承太郎が夢を見過ぎなんだ……『The Little Prince』愛読者め」
 「喧しい『マザーグース』フリーク」

 楽しいと思えたひとときも、あった。主張がぶつかってスタンドをぶつけ合わせて戦いながらも、次の日にはすっきりして、笑い合えた。

 「もしも、わたしが人と同じように生きることができたなら」
 「できた、なら?」
 「いや……なんでもない」
 「できねえことは言わなくてもいいぜ……てめぇはよくやっていると思うし、てめぇのことは……信じている」
 「そうか」

 仄かな微笑に感じる幸せがあった、と思う。

 しかし結局のところ、終わりが全部を染めてしまった。終わり悪ければ、全てが真っ暗に。



 棺の中のDIOは、相変わらず美しかった。百人がいれば九十九人が涙ながらにその美を讃えただろう。承太郎は、残るひとりだった。安らかな寝顔も、承太郎には味気ないものに見えて仕方なかった。これは本当にDIOなのか。よくできた蝋人形じゃあないのか。

 「血、飲んでなかったんだって?」

 白い顔はどう見ても死体のそれだ。手首を取っても氷みたいに冷たい。吸血鬼は死人だという文献を読んだことがある。だけど、承太郎が見て、触れて、感じてきたDIOは柔らかくて、熱があって、汗をかき血を流す、生きている男だった。生きているのなら、その次には死がある。食事を断てば、死ぬこともあるのではないか。

 「おれがお前を殺したのか……DIO」

 あの日以来、一滴たりとも飲まなかった、DIO……頬をさする。そこも硬い。



 ある朝、承太郎がDIOの部屋を訪ねた時。ベッドの中にいたのはDIOだけではなかった。寝癖のついた髪をくしゃりとかくDIOが静かに見下ろしているのは、隣に倒れている血塗れの女。承太郎も、事切れた彼女の、硝子玉のような目を見ていた。

 どれくらい、そうしていただろう。沈黙を破ったのはDIOの吐息だ。深い深い、その溜息からは、百年以上に渡る因縁が、闇よりも濃い色をした泥が込められている、そんな気がしてならない……やがて、そうするのが当然のように承太郎は踵を返した。DIOに対して背中を向けた。DIOはなにも言わない。承太郎はドアノブへ手をかけた。DIOは、なにも言わない。

 部屋を出た。通路を進んだ。テレンスが止めるのを振り切った。立ち止まり、頭上を旋回している隼を見上げた。門を出るまで、あと一歩、というところでも、止まってみた。肩越しに振り返る。外は快晴だ。燦然と燃える太陽の下、吸血鬼は出られない。分かっていても、せめて館の入口に佇む黄金色の影はないかと、目が探す。上空でペットショップが鳴いた。それがDIOからの返答に思えた。引き留めない、なにもしない、行くなら行け、と。

 「終わったんだな」

 ひどくぎこちなく他人行儀で温度のない声を残して、館を去った。そうして、世界中で誰もが繰り返してきたことを承太郎もまた経験したのだ。



 DIOは、女を殺していない。分かっていた。そしてDIOがあの時、一言でもそう言ったら、信じた。

 「なんでなにも言わなかった。言い訳でも屁理屈でも丸めこもうっていう話術でもなんでもよかったじゃあねえか。いつもそうしてきただろう、饒舌なてめぇが、なんで行かせた……おれを殴ってでも」

 DIOの肩を掴んで引っ張り上げる。怒りを、抑えることなくぶつける。同時に、いやそれ以上に、承太郎は自分自身に憤っている。どうして理由を聞かなかった。今みたいに掴んで揺さぶって、自ら問い詰めなかったのか。なぜ、昔はできていたことができなくなっていたのだろう……それは恐怖したからだ。もしも、万が一にでも、DIOが彼女を殺したとしてその時、DIOから終わりを告げられることに、心が竦んでしまった。

 「簡単に終わらせているんじゃあねえぜ……てめぇも……おれも! ……恋人だったら!」

 人をやめたけれどどこまでも人だった男を、抱き締める。



 そこでこのDIOは考える。

 顔へ、承太郎の厚くて熱い胸を押しつけられながら、この状況をどうしてくれようと下ろした目蓋の裏、DIOは取るべき行動を考える。

 あの日、餌のひとりだった女が目の前で死んだ。死んで見せることで、DIOの心に残りたかったその女は、『DIO』に恋をしていたのだ、とその時のDIOには理解できた。DIO自身がそうだったから女の気持ちが分かったのだが、その妄執の深さも実感していた。恐慌に走らせたものが強い嫉妬心だったことも気付いていた。誰へ向けられての? 周知の事実だ、朝、DIOを訪ねるのはあの少年に決まっている。

 承太郎の目はDIOを責めていなかった。この女が勝手に自殺を図ったのだと言えば、承太郎はそれを信じた、と思う。なのに、なにも言えなかった。追えなかった。たとえ女の自殺であろうとも、やはり自分が死に追いやったといえるからだ。これは、今回限りでは済まないことだった。吸い尽くし殺さずとも、DIOの指や牙は麻薬、美貌は毒、声は罠、餌達は縋ってくる。そこに新たな因縁が生まれていく。『DIO』が吸血鬼である限り、殺し殺されの鎖は断ち切れない。

 ジョナサンの血を引くジョースターの末裔だ、承太郎は、優しい。人の死の上に立つDIOを抱え切れなくなる日が必ず来る。そしてその時、承太郎の心を失うのだろう。それは耐え難い恐怖だった。

 だからDIOは自分の体を、吸血鬼の可能性を試すことにした。極力動かないようにして、毎日棺桶で眠った。少量の血で生きることに慣れるため、味も素っ気もない輸血パック数個で生活できるよう体を慣らしていくために休養に入った。テレンスには暇を出した。ヴァニラ・アイスには泣かれた。それでもDIOの決心は揺るがなかった。

 上手くいっていた。とうとう、輸血パック一つで体力も理性も、一週間は持つようになったのだ。順調だった。それゆえに、承太郎がここへ来たのは予想外だった。全部片付けて館も引き払ったあと、この身ひとつで迎えに行くはずだったのに。

 だが、嬉しかった……どうしようもなく、浮かれた。

 「こいびと……かわいらしい響きだな」

 承太郎の胸が戦慄いた。DIOは顔をすりつけて赤子のように甘える。承太郎が珍しくも思考停止に陥っている隙に、久し振りの承太郎の体温、匂い、存在感を堪能し尽くす。

 「おれは恋人を置いていくほど出来ていない」
 「DI、O?」
 「死ぬ時は道連れだ……でも、まだ死なないわけだ。だから」

 『なァ承太郎。仮に。そう、もしもの話だが……もしも、わたしが人と同じように生きることができたなら』

 「お前と寄り添って、生きても、いいか」

 ごそごそと胸から抜け出して、承太郎を見上げ、告げる。承太郎は唇を噛み締めている。緑色の瞳を覆う涙の膜は、海の水面のようにきらきらとして、美しい。零れたらもっと好いだろう。意地悪くも期待したのだが、承太郎は男の意地を見せた。一旦上を向いて引っ込めて、決壊させず、上手に笑って見せたのだ。目は潤んだまま、頬も唇も色付いていて、それもまたとても綺麗な笑顔で、しかし、

 「I suck your cock」

 そんなことを言うものだから、DIOは自分の胸をわし掴み叫ぶ。

 このDIOが!



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