殺意は二種類に分けられると知った。ひとつは、そうせねばならない相手に抱くものだ。自分の邪魔をする者は殺す。歯向かう者は殺す。少しでも気に入らなければ殺す。全ては己が魂の安寧のために。殺そう、と、自分の意思で決め、拳に込めて力を振るい、命を奪う。今まではそうしてきた。そうやって何人と殺した。では、今一つとはどんなモノか。
「お前、の、罪を、知るがいいッぞ」
運良く、いや、不運にも死に損なった一人が千切れかけた腕を持ち上げ指差そうとしてくる。血と共に吐き出した呪詛などもうどうでもいい。勝ち誇った面をしていようとどうせ死に行く者だ、放っておけばいい。のに、なけなしの力を振り絞って、血管を這わせ脚として死に損ないの頭上に上がっていく。哀れさに満ちていた笑みが消えて引き攣る顔を淡々と見下ろす。
「ひッ」
「誰から何を奪ったか一々覚えていないし、それを罪とは思わん。ましてや永遠に悔いることはない。おれはおれが一番かわいい」
「ぐ、く、ば、化物め!」
我が身が可愛いから、誰かを殺したいと思ったことなんて掃いて捨てるほどにある。実父から始まり、厳しくも優しい人格者だった義父も、勇猛果敢なる戦士達も、ついには共に育った義兄弟、友も、この手にかけた。だがそれには必ず理由があった。殺したいと思いながらもその中にほんの一欠片、そうせねばならないという心が在った。
「そうだな化物のおれと違ってその傷ではもうじき、死ぬ」
放っておいてもなんの支障もない。塵に等しい。だけど、
「だけどな、おれは殺す」
そうでなければ、この感情、治まらない。
瞳から眼光のごとく放たれた体液が復讐者の眉間を貫いた。そうして息の根を止めて、それで自分の気持ちが浮上するかと問われればそんなわけはないのだ。だが殺した。殺したくてしょうがなかった。なんの思惑も打算もなく、そう思った。
「なんで、てめぇが怒るんだ。DIO」
視線を動かせば、この陰惨な部屋で唯一息がある人間……少年が困ったような顔をしている。仰向けの体には男の体が覆い被さっている。襲われて望まぬ行為を強いられている光景だ。男に上半身のないことを除けば。
「怒、って、いるのか。わたしは」
怒りによる殺意……感情のみに突き動かされて殺すのは初めてだ、と思うと同時、
「おお、だいぶ恐ぇツラ、してるぜ……ん、あッ」
「承太郎」
男に突き入れられたままの身を震わす、少年の辛そうな声を聞いた瞬間、べちゃりと床に落ちた。
*
血の海の中、水音を立てながら這う。腹這いでずりずりと進むので衣服はあっという間にずぶ濡れになった。いまだ痺れてろくに動かぬ脚は邪魔な肉塊でしかなく、いっそ切り離したいのだが、これがなければできないこともある。歩くにはこれが要る。無事、連れ帰るには、この脚が必要だ。
まだ、立てん。
石仮面を被って以来、人間と比べて代謝が劇的に良くなった反面、薬物が回るのも常人の倍以上速まったとは、なんたる皮肉か。普通の鉛玉から麻酔銃まで使われての集中砲火、時を止めてもかわし切れぬ量の弾丸を複数打ち込まれたが、肉体の損傷などすぐ治癒してしまえるのに生物兵器には敏感に反応した。特に神経毒の類は、この体にもよく効いたのが誤算だ。半端なところで人間らしさの残る我が身が忌々しい。とっとと回復しろと念じつつ、今はひたすら腕を前へ出し、体を引きずり、少しずつ近付いていく……そんな鈍いペースだと、ほんの十数メートルの距離が途方もないものに感じた。
貴様が、遠い。
動けぬせいで、体が遠い。声が出ず、名を呼べず、だから何も言ってやれない。心までも、遠い。さきほど抱いた、失いかけた危機感。今抱く、失うかもしれない危険。じわりと差し迫ってくる、世界中のどんな波紋戦士やいかなるスタンド使いよりも厄介なもの、最も忌避する不安。
「あ、う……こんな、たかだか、こんな距離、が阻む、か、このDIOを」
なかなか埋まらない距離がもどかしい。だがスタンドパワーを全て使い切ってしまっている状態では、それも仕方がなかった。今思えばもう少しまともな手段があったのではないかと自省できるのだが、目の前でこれ見よがしに行われるショーには、抑えが効かなかった。
手足の痺れはスタンドにも影響した。四肢が思うように動かせない分、スタンド能力まで制されたようだった。
抱え上げられた脚が揺さぶられる度、ああ、と響く掠れ声。鳴らした歯軋りを聞き拾ったのだろう、向けられた眼差しと目が合った時ほど心臓が痛んだことはない。DIO、と、この名を呼んだ唇がなお言葉を紡ごうとして、無慈悲の手に塞がれる。上から圧迫され呼吸を止められて瞑った眦から涙を零す姿へ、とっさに伸ばしたこちらの手はもちろん届かない。諦められず悪足掻きで爪が真っ黒に染まりながら鋭利に伸びていった。それがなんの役に立つ。ますます焦燥した。濡れて深いグリーンの光をたゆたわせた目がさらに潤んで、言うのだ。
大丈夫だから落ち着きな、と。
それでまた血が上った。
「なにが……なにが、だ?」
なにが大丈夫だというのか。貴様におれの心のなにが分かるのか。貴様はおれのものだろうに。
「んんッ! ぐ」
やめろ。触れるな。そいつは知らない。まだ、なにも。
「大切なものを奪われる気持ち、思い知れ」
満足気な笑いが耳元に囁かれる。正当な制裁。リベンジの末のリンチ。さぞ嬉しかろう。暗い喜びを得ただろう。だがお生憎だ、大切なものなんかじゃあない、そいつにそんな価値はないのだ……そこまでの関係にも至っていないのだから。だから、
「やめろ」
「ふうッ、ん、あッや……ぅああッ」
「そいつは、無関係、だ……血のためだけの」
血を吸うためだけに飼っていた存在で、そこになにがしかの感情など、ない。なかった。仮にあったとしても、こんなことに巻き込むのなら、想いはしなかったのに。
体を折り曲げられて結合が深くなり、より強く激しく揺さぶられ続ける様を、見せつけられて、
「単なる食糧だと? へえ……そんな顔しておいてよく言えるじゃあないか。酷い顔色だぞ」
「見ろよ、しっかりとな! その目に焼き付けて後悔しながら滅びろ」
どうして、冷静でいられよう。毒が抜け切るまであと数分だったがそれを待つ余裕があるはずもなかった。僅かに残っていた体中の力を、比較的まともに思考が働いていた頭部へと集中させ、なけなしの力でスタンドに手刀を放たせた。自分を押さえつけている男にではない、自分の項に当てていた。
「がはッ……時、よ……止まれぇッ!」
喉を裂くほどの絶叫と、ごとり、と重い音が鳴り、世界は時間を停止させた。薬に侵された胴体と一旦切り離して取り戻す能力、どうにか使えた『世界』。殺してやる……と、地の底よりも低いしわがれ声にスタンドが応え、全てが破壊し尽くされた。
*
おかげでこのような醜態を晒しているが、結果がこの大量の血と引き換えと思えば安いものだ……そう前向きに考えるしかないだろう。屑共のはした命を奪うためにその、気高き王の手を汚す羽目となったザ・ワールドには悪いことをしたと思う。
すぐに接合したとはいえ首と胴の繋がりはまだ不安定で、百年前ほどではないにしろ境目はとても頼りなく、気を抜けばぐらつく。こんな風に。
再び襲い来る強い酩酊感に、喉奥で呻く。
不意にくらりと視界が揺れたかと思うと、そこから一気に意識が遠のいていく。抜けてしまった力が戻らないまま支えきれなくなった頭が落ちる。乾き切っていない、生温い血が頬に跳ねた。無様にも、汚泥のような赤黒い色に汚される。臭い。いいや、これは単なる血だ。性別こそ違うが普段吸っているものといくらも変わらぬ人間の血液だと分かっていたが、飲むに堪えない腐臭を放っているように感じられて、胸糞悪くなるのだ。だというのに弱った体じゃあもがくことさえ叶わない。
「最低、最悪、だ……最高に、な」
毒づき、血溜まりに沈んでいく身を一瞬だけ掬い上げる力。次の瞬間には体勢が安定し、もう一度腕で体を支えることができている。
「ワー、ルド……気を、遣わせた」
縺れる舌で半身の名を呼び、その労を讃えた。すまん、世話をかける。像をも結べぬほど消耗しながらも主の望みを叶えようとするいじらしさに息が詰まる思いがした。自分のスタンドは『最強』だ。そうだとも。自分達の向かうところに敵はない。こんな状況などどうということはない。あと少しの距離を見つめる。
待っていろ、すぐに行く。
横たわる少年の肢体を見つめながら、舌先を伸ばし、床を、舐めた。
血にも品質がある。甘かったり、酸味がきいていたり、まろやかな口当たりや、目も覚めるほどに刺激的なものまで様々に。そういった違いに気付きそれぞれの個性を味わうことが煩わしいからいつも指で食事をしていた。結局は、宿主に対する思い入れから勝手に味なるものを錯覚しているだけなのだろう。男の自分にとっては若い女の血が甘美だし、この体に馴染む者の血ならば最上級の美酒となるのだ。
だからこれも脳がつくり出す偽りの味だ。そう言い聞かせ、口内を侵す不味さへの吐気を堪え、苦い血を飲み下した。失くした力をもう一度得るべく、床についた十本の指で吸い上げ、舌で舐め取り、吸収していく。不味い。それがどうした。吐き戻したい衝動に駆られ全身が痙攣する。だが力は確実に戻っている。
こんなこと、どうってことはない。
全快することが全て。
過程や方法などどうでもいい!
今は早く、一秒でも早く、行くのだ、あれの元へ、どれほど無様に這ってでも。
周囲の血をかき集めながら、力を貸せと念じる。かつて、敬意を払いながら強い殺意を向けた相手へ。勝手は承知だった。癪だろう。憎かろう。だがお前の血を引く子をいつまでもこんなところに置いてはおけない、汚らしい血の海から一刻も早く救い上げたい……この想いを汲めよ。記憶の中の、冷酷なまでの紳士面がふと、くしゃりと崩れて寂しげに笑った。
『もっと早く、そんな気持ちを持つことができていたらな……君はいつも、どこかで抜けている』
脚に力が戻ったのは偶然だったのだろう、偶々毒の浄化が終わっただけだ、そうに違いない。が、立ち上がり、駆け寄る間のわずかな一瞬、一度だけ、胸元に手を当てた。
「は……あ、じょ」
そしてようやく、指先に触れる体温に声さえ詰まる。
「承、たろ……承太郎……承太郎」
手首を掴んで引き寄せて、上体のない『男』だったものを吹き飛ばして、その楔から解き放つ。抜けた弾みで短い悲鳴を一声上げ跳ねる体をそっと抱く。座り込み、もたれかけさせた少年、承太郎の背中を何度もさすり宥め、徐々に抱き締めていく。手のひらに触れる黒髪までも人間の血に濡れて湿っているが、承太郎が腕の中に在るという実感、それだけで安心が広がっていく。目立った怪我はしていないはずだが一応確認しようと目線を合わせた。髪を撫でながら上向かせる。やはり顔中が酷い有様だった。自らの涙の痕から吐瀉物、他の男のスペルマにまで塗れた承太郎の顔はそれでも凛として、覇気を失っていない。弱り切って泣きじゃくるかとも、思っていたのだが、それどころかこの胸倉を掴み上げてきた。
「殺すことは、なかったと思うぜ」
「貴様も怒っているのか?」
怒る気力があることに、安堵の息を吐いている。そんな自分に呆れるばかりだ。
「おう。怒ってる。とってもだ。でも……助かった……ケツが切れて、痛くて、限界だったからな」
余計なこと勘繰るなよと言いたげに頭を振ろうとする承太郎の頬を捕らえ、白い汚れを指で拭い、唇を寄せる。あとでちゃんと風呂に入れるが、今、口付けで落とせるところは落とそうと思ったのだ。承太郎にはそれをきっぱりと拒まれた。
「離せ」
胸を掴んでいた手もぱっと離して、腕から抜け出そうとする、ここへ来ての拒絶に、なにも言えない。言いたいことはまだ有り余るほどあったのに、言葉を失う。体の傷なら医学で治せる。しかし、いわゆる、心の傷にはどう接していけばいいのか。肉の芽でも埋めて忘れさせてやるのがいいのだろうか。半ば本気でそんなことを考えてしまう。空気が沈んだのを感じ取ったのだろう、承太郎は逸らしていた顔をまた戻す。こちらを見つめる目は真剣そのもので、ばかみたいに真面目な顔だ。
「てめぇが汚れるのが、嫌なんだ」
思わず、まばたいてしまった。それから表情筋を引き締めた。真顔というやつだ。承太郎に負けず劣らず阿呆面を晒していたと思う。
「おれは気にせん」
「おれが嫌だ、と……おい、ん、DIO」
「駄々など聞かないぞ。いいか、おれだってまだ怒っている」
お前に対してではないが、と付け足して、あらためて抱き締めれば承太郎も抱き返す……はずが、その腕はぎりぎりで止まった。またか。今度はなんだ。なにが気に入らんというのだろう。もともと不思議なやつだったがこうも読めないとなるとだんだん腹が立ってきた。それは心に余裕が出てきた証拠であり、良いことではあるのだが、いかんせん気の長い方ではないから、抜け出そうと抵抗する少年を睨みつけてしまう。
「やっぱり離せ」
「そんなに消耗した身で暴れるんじゃあない。それに、わたしの首もまたもげる……なんだ、どうした」
「おれとは、無関係なんだろう?」
ああ……よりにもよってそこを聞いていたとは。
「あのな……あんなものは分かるだろう、言葉のあやだ」
「分からねえよ。そんなの……てめぇのことはもう長いことずっと、分からん」
それは、同じだった。昨日までは、承太郎と同じで、自分達のあいだにあるものも、繋がりも、己の感情すらも分からなかった。あくまで、今日を迎えるまでは、のことだ。もう、分かった。わたしは分かった、と、わざと得意げに言ってやると、承太郎は驚いたあと、眉根を寄せる。口から覗く歯を噛み締めて悔しがる様子は、散々なものを見せつけられてきたこの目をよく癒やした。帽子がないと十七という年相応に見えて、胸が甘く痛んだ。なんというのか、とても大事にしたくなる。大事にすることがもう手遅れだとは思いたくない。
「なにが分かったんだ」
「ふん……貴様の頭で考えるんだな……少なくとも、関係が無いということは、ない」
「無関係じゃあ、ない?」
「そうだ」
次はどういう表情を見せるのだろう、覗こうとしたが、承太郎は回避した。正確には、避けるのではなく、胸に顔を押しつけてきたのだ。インナーが薄くて良かった。承太郎の息をこんなにも傍で感じられる。
「じゃあ……それなら、DIO」
「ン?」
生々しい首の繋ぎ目を承太郎が労わるように撫でる。
「お前が分かったって言う、関係、つくってくれねえか……今、すぐ」
風呂まで、待てなかった。だめか、と見上げてくる承太郎を穢すもの全て今残らず、拭い取ってやろうと決める。
*
細心の注意を払い、本能を抑え、傷つけぬようゆっくりと。中へ入れば、そこは滑りが良く、ぬかるんでいる。それには堪えた。萎えそうになるほどの暗い気持ちが浸食していく。
「つらい、か?」
はっきり言って、おれは辛い、お前を奪われたことを感じて辛い、という気持ちを込めたのだが、しかし承太郎は首を横に振る。
「すご……は、ぁ、DIOの、ぜんぶ入った、ぜ」
掘られたことも無駄じゃあなかったな、などと強張りかけた口元を必死で歪め、なんとか笑みの形をつくって軽口を叩いていてみせた。承太郎は涙を流しっ放しにしている。もはや恥もなにもないのだろう。ぽろぽろと生まれては落ちる雫の意味を考えることは、やめた。無理に聞くこともしなかった。ただ、一粒として逃さずに舐めて取り込んでいく。今まで飲んだどの血よりも甘い。座位で繋がっている下肢が、ぐっと熱くなる。呼応して、承太郎が腰を揺らし、泣く。
「よ……かったな」
「承太郎?」
下からの緩い突き上げにひときわ大粒の一滴を流した承太郎が肩に顔を埋める。
「はじめ、ては……DIOが、よかった」
見たことか……ちっとも大丈夫じゃあなかったのだ。叶わなかった想いを殺し切れていない、承太郎の嗚咽。肌に響いて堪らなくて、それにつられて、泣きたくなった。
「顔を上げろ」
「ん、ん」
前髪をかき上げて額へひとつ。頬にひとつずつ。
「承太郎、初めての相手はこのDIOだ」
唇に唇を重ねて、ひとつ、ふたつ、みっつ。
「キスから始まる……これがセッ、クスってやつだ」
息をさせるために離れたのに、承太郎から口付けてくるからあとはもう夢中で貪り合う。
「DIOが、はじめて」
「あぁおれが最初だ」
頬を通った一滴を、気付かれていないといいのだが。