小説本サンプル
□契約はただのきっかけ
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プロローグ 一ヶ月後
契約結婚などと言う小説か漫画の中のような申し出をされたのは、サンダルフォンの十九歳の誕生日の少し前のことだった。
その時のサンダルフォンは、両親が経営している小さなケーキ屋が潰れかけていたのに加え、サンダルフォン自身が高校を出て働き始めた会社の経営まで傾いてしまい、真剣に今後の生活に悩んでいた。
そんな時に、知人のベリアルを通してサンダルフォンの元に来た申し出が、とある名家の御曹司との結婚だった。
曰く、その御曹司は望まぬ相手との結婚を避けるために仮初めの妻が欲しいらしい。
ひとまず5年間伴侶として一緒に暮らしてくれれば、実家の資金援助をする。
特にしなくてはならないことはない。ただ伴侶としてその御曹司が暮らす屋敷にいれば良い。
5年経ったら婚姻を解消して良いし、その暁にはサンダルフォンの就職先を世話する。
あまりにサンダルフォンに都合の良い申し出で、どう考えても怪しかったが、そこで慎重になるだけの余裕はなかった。
そんなわけで都会の喧騒から離れた邸宅がサンダルフォンの住まいになり、しばらくの時が経つ。
「良い天気だな」
廊下を歩きながら、明るい日差しが差し込む窓を見る。高い位置にある窓からは、晴れ渡った青空が見えた。
「ルシフェル様はどちらに」
掃除をしていた年かさの使用人に声を掛ける。
「また書斎ですよ。昼食の後からずっと籠りきりです」
ここのところ根を詰めすぎです、叱って差し上げてください、と頼まれ、微笑んで頷いた。
名家の子息であるサンダルフォンの夫は、人前に出たがらない性格だ。だから、本家の屋敷から離れた邸宅に少数の使用人と共に暮らしていた。
あまりにも公の場に出てこないので実在を疑われているらしいが、実は彼は遠隔でできる仕事を多く引き受けている。なまじ外に出ずにできる仕事ばかりなために食事や睡眠も疎かにしがちな彼にストップをかけるのが、ここに来てからサンダルフォンが自主的に始めた仕事だった。
両親から届いた菓子と、先ほど自分で淹れた珈琲を乗せた盆を持ち、伴侶の書斎に向かう。最初は書斎の重厚な扉に気後れしていたものだが、今ではすっかり慣れたものだ。
コツコツと扉を叩く。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を開けて中に入る。パソコンの画面を見つめていた美貌の青年が顔を上げた。窓からの光で銀髪がきらきらと煌めいている。
「休憩しましょう」
「うん」
穏やかな笑顔を向けられて、サンダルフォンもふにゃりと笑った。
パソコンがある机ではなく、その手前のソファの前のテーブルに珈琲と菓子を置く。ルシフェルがソファに座ると、サンダルフォンも隣に座った。
「良い香りだ」
珈琲をゆっくりと味わう姿にぼんやりと見とれた。この人は何をしていても絵になる。
「サンダルフォン」
「はい」
その視線に気付いたのか、ルシフェルの薄蒼の瞳がこちらを見た。ぱちりとまたたいて返事をすると、嬉しそうに顔が綻ぶ。
「美味しいよ」
「良かったです」
「いつもありがとう。君が来てから体調を崩さなくなったと皆に言われる」
「いいえ。でも、俺がいなかったとしても無理はしちゃだめですよ」
「うん」
穏やかな会話を交わし、寄り添い合う。大きな手が髪を撫でた。
最初は本当にただの契約だったはずなのだが、結婚して半月が経った頃からルシフェルから明らかに好意を向けられるようになった。
綺麗な人に一生懸命優しくされて、自分でも呆れるくらいにころりと恋に落ちてしまったサンダルフォンは、日々注がれる愛情を素直に受け入れている。
頭を撫でる手の心地よさに目を細めていたサンダルフォンは、ルシフェルが少し真剣な顔で口を開いたのに気付き、薄蒼の瞳を見つめた。
「サンダルフォン」
「はい」
「君がここに来て、今日で一ヶ月だね」
「そういえば、そうですね」
もう一ヶ月も経ったのか、と感慨に浸っていると今度は両腕が伸びてくる。
ぎゅう、と抱き締められてサンダルフォンは頬を染めた。
「ルシフェル様?」
「五年経っても、ここにいて欲しい」
「え?」
思わずきょとんとすると、頬ずりをされる。
「気が早すぎるのは分かっているんだが。この一ヶ月が本当にあっという間だったから、すぐに五年経ってしまいそうで不安になった」
抱き締め直されながらそう言われ、サンダルフォンはくすりと笑った。
「今さら五年経ったら解放して欲しいだなんて思ってませんよ」
「…そうか」
「はい」
五年経ったら必ず離れなくてはならないわけではない。だから、サンダルフォンが希望すればずっと一緒にいられる。
ほっとした様子のルシフェルにすり寄って、サンダルフォンはそっと自分の下腹部に触れて見せた。
「だって、もう、形だけの契約結婚じゃないでしょう…?」
ルシフェルとは、数日前から肌を重ねる関係になっている。
まだ互いに慣れていない行為だが、ベッドの上では特に大事に愛してもらえて、サンダルフォンはとても幸せだった。
「うん」
目を細めたルシフェルが顔を近付けてくる。目を閉じて待つと、ちゅ、と甘い音と共に唇が重なった。
「ん、ぅ」
「サンダルフォン」
「ふぁ、ん」
「可愛い」
何度も唇が触れてくる。
腕の中でとろとろとキスの雨を受け止めて、サンダルフォンはうっとりと息をついた。