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□センス•オブ•ディスタンス
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「俺とお前は、付き合っているのか?」
ぶっきらぼうで、恥ずかしがり屋のキドが簡明直截にそう言ったたので、僕は思わず彼女を二度見した。
壊れやすい宝物のようにそっと握り締めた彼女の右手は絹ハンカチのように頼りなく柔らかい。雨はいつの間にかすっかり晴れて、洗い清められたように澄み通った星空が広がっていた。こんな時刻に、しかもご丁寧に手まで組み合って歩いている僕たちは、はたから見ればカップルなのかもしれない。しかし、僕とキドはそんな言葉で表せるような関係ではなかった。
「キドは、どう思うの?」
檻の中の動物を覗き込む小学生のように、好奇心に眼を輝かせてキドに問いかける。俺が聞いたんだ、と言ってみるみる顔を紅潮させる彼女を見て、僕は満悦の表情を隠しきれなくなる。ここで、僕はキドと付き合っていると思いたいよ、なんて甘い言葉を言えば良いのだろうか。キドが少なからず僕に好意を寄せていることは彼女の表情を見ればすぐにわかる。
「キドの質問でしょ?だったら答えを見つけるのもキドじゃないといけないんじゃない?」
頭の中に赤い警告ランプが回り始めた。タイミングなら今が最適だ、なのに又してもお前はチャンスを逃すのか、とでも言うように。でも、僕は頭の中で騒いでいる警告ランプにそっと黒い布をかけた。キドから先に好きって言って欲しい。ただ、それだけの理由で。毎週、と言っても良いほどの頻度で会って、手を繋いだり、デートをしたりなどの恋人とまではいかなくても友達以上であるはずのことをしてきた彼女からの好きという言葉を聞きたかった。
「そんなの、知らない。」
羞恥からか、具合悪そうに下を向くキドに、自分の欲求を完成できない心の苛立ちが魔女鍋のようにぐつぐつ煮えかえる。逆ギレしたくなるのを堪えて、僕はとっさに顔に愛想笑いを貼り付ける。
「じゃあさ。」
そう言って、唇が触れる限界までキドの顔との距離を詰める。星のごとく澄んで微塵(みじん)の濁りも見えぬ子供のように綺麗な瞳が僕を捉えた。
「少し、恋人っぽいことをしてみようか。」
艶やかに微笑んで、残り数センチの距離を詰めた。熱い唇の感触が、火花のように貫く。彼女なら、何をしたって許してくれる。だったら、このキスを何度も思い出して僕のことをもっと意識すればいい。
「…っいた…。」
突如頬に衝撃が走った。ぐらりと視界が回転して、平衡感覚がおかしくなる。
「お前は、付き合ってもない奴に、平気でそんなことができるのかよ。」
キドは怒っているのか泣いているのかわからない顔で、旱天(かんてん)に喘(あえぐ)ぐ魚のように、大声で一喝した。こなれ切れない言葉や感覚で頭の中が発熱したようになる。キドの言葉は、異国の言葉でも耳にするかのように耳に入らなかった。先ずもって、謝ろうと口を開くが言葉が出ない。キドが何に対して怒っているのか検討もつかなかった。自分は、キドに拒絶された。痛む頬がそのことだけを嫌というぐらい主張していた。
僕は、少し自惚れていたのかもしれない。
「何やってるんすか…カノは…。」
呆れたと言わんばかりに苦笑を交えてため息を吐くセトに向けて疑問符が、金銭登録機のドル符号のように、ひっきりなしに浮かんでは消える。
先日の事件以来、キドと僕は会っていなければ、連絡さえもしていない。謝ろうと電話をしてみるが、着信拒否をされているのか、彼女の声を聞くことも許されなかった。情けないが、具体的な対処法も浮かばず、昔からの付き合いで、一番の親友であるセトに相談することにしたのだ。
「僕は、キドを怒らせるようなことをしたのかな?」
コーヒー、お代わりいる?と問えば、じゃあお言葉に甘えて、と言ってセトはカップを差し出した。カップにコーヒーを注ぎ分け、続いてコーヒーよりは少なめにミルクを加える。砂糖は一杯だけ添加し、ゆっくりとかき混ぜる。湯気の下に細かな乳白色の泡が立ち、コーヒーのアロマにミルクの甘い香りが絡まる。零さないように控えめに歩いてセトに手渡す。ありがとうっす、とぱっと音を立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔を見せるセトにつられて僕も口元に微笑が日に輝いている泉のように湧き上がった。
「カノは、本当に何故キドが怒っているのかわからないんすか?」
まるでぶよぶよした水晶体から指を突っ込んで脳味噌を手探りするかのようなセトの視線に僕はただ頷く。あんな拒否のされ方をしたら、僕はキドに心の底から嫌われていたのだとしか思えなくなる。
ひとしきり、沈黙が続いた。それは、死の世界のような永遠の沈黙とは違い、どちらかといえばたわいのない沈黙だった。
「世の中、プライドほど邪魔なものはないっすよね。」
お互いの視線が凍ったように止まった。矢庭にセトの発した言葉に僕は面を喰らう。 何が言いたいんだよ、と聞きたかったけれど、何も聞かずにセトの話を聞いたほうが良いと判断する。物思いに沈んだような黙り方をする僕をセトは愉快そうに覗き込み、プライドっすよ、と繰り返した。
「それだけ?」
終始にやにやと口元に笑いを浮かべて僕を見下すセトに脳の毛細血管が線香花火のようなぷつぷつと破裂していくような感情を覚える。プライドが何なのか、プライドが僕とキドの関係を壊したものだったのか、セトの言葉の真意がつかめず、急かしたくなるような気持ちを抑えきれない。
「まあ、俺が力を貸せるのはここまでっすよ。」
お手上げ、というように両手をあげるセトに、僕ははぁ?という間抜けな声をぶつけた。これでは、黙ってセトの話を聞いていた自分がただのバカみたいになる。
「結局、何が言いたかったのか全然わからないんだけど。」
いつもより1オクターブ低い声を発して掴みかかろうとした僕の唇にセトはそっと人差し指を添えた。
「プライドっすよ。カノの中でキドにどうしてもして欲しいと思っていること。それが2人の関係を邪魔しているんじゃないんすか?」
心臓に氷水を注がれたようにはっと我にかえる。プライド。それは、キドから先に好きって言って欲しいという僕の願望だった。
「それから。カノ。」
わかったようなわからないような禅問答みたいな言い方でセトは付け加えた。
「きっと、邪魔しているプライドは、カノだけの物ではないっすよ。」
ーーキドは、カノを嫌っている訳ではないっす。
末尾のセトの言葉は、耳の奥で回るオルゴールみたいに、繰り返し登場する。頭の中でばらばらだったパズルのピースが次々とはまっていくように、全てを理解した。口元が緩みそうになるのを、必死でこらえた。
まだ、状況を理解できただけ。小説で言う所のプロローグ。僕はパーカーの襟を首のところで、今まで以上に堅くぎゅっと合わせた。僕なりの決意の印。
「セト。どうもありがとう。」
そう放つと、僕は勢いよくドアを開いて、間髪を容れず、というすばやさで脱出した。
高鳴る心臓の響きに追いかけられるように早足で歩く。空は真に黒く、外気はまるでよく磨き込まれた鏡のように街を映し出していた。もう、10時過ぎぐらいだろうか。ポケットの中から、買い換えたばかりのスマートフォンを取り出して時間を確認する。続いて、暗い部屋にぱっと電灯がついたように立ち止まった。緑色に鈍く光る電話のマークをタップして、電話帳のカ行まで画面をスクロールさせる。木戸 つぼみという名前見つけると、深い海に潜るダイバーのように深呼吸をして、電話をかけた。
コール音が深い底無しの虚無の中に重りを垂らすように暫く鳴り響き、おかけになった電話番号への通話は、お客様のご希望によりおつなぎできません、というアナウンスが流れた。
まあ、そうだよね、と下馬評通りの結果に僕はさほど落ち込まず、電話を切る。
さて、どうしようか、と新しい事件を見つけた名探偵のように、さも楽しそうに腕を組んでみる。時間も時間だし、明日彼女の家に伺おうという手もある。
遠くから、氷のように冷たい透き通った風が通って肌を容赦無く刺す。風は、あと数時間で深夜が訪れることを主張していた。
「よし、行こうか。」
僕は、RPGゲームを開始したかのように歩き出した。何処からかファンファーレが聞こえてきそうな感じがして、胸が高鳴る。喧嘩したはずなのに、不安は全くなく、浮き足立っている自分に驚くほどだった。
もし、キドが僕と同じ気持ちなのなら。もし、キドが僕からの好意を表す言葉を待っているのだとすれば。早く、この気持ちを彼女に送り届けてしまいたい。もう、それは清潔な包装紙に包まれ、細い紐できつく結ばれている。愛心を届ける準備はできているのだ。先日まで、あんなにキドからの告白を待ち望んでいた自分が嘘みたいだった。
間をおいて、何度もドアをノックする。チャイム音は、もしキドが寝ていた場合、眠りの妨げになってしまうと思ったのだ。もし、反応がなかったら、また明日伺うとしよう。そう思いながら、不自然なほど均質にドアを叩いた。
「こんな時間に、何か用ですか…?」
細くドアを開け、外に出たキドは僕の顔を見て、社交ダンスのステップを踏んでいるように素早く、またドアを閉めた。ご丁寧に、がちゃりという鍵のかかる音まで聞こえて、その音が針の雨のように心に突き刺さった。
「ねえ、キド。いるの?」
髪の毛が落ちる音さえも聞こえてきそうなほど静まりかえったドアに向って僕は問いかけた。静寂と寒気が身を包み、時間も空気も凝結したようだった。襟元には昔から人間を孤独で寂しいものだと自覚させて来たような夜風が吹いて、眼と鼻がつんとするようだった。
出し抜けに、ことんと何かが地面に落ちる音が聞こえた。ドアの向こう側にキドがいる。今の物音は確実に、ドアの向こう側でキドが立ち聞きしていることを証明するのには十分な物音だった。先刻、孤独感に浸っていた自分はいつの間にかなくなり、湧き上がる嬉しさに身を任せていた。
「キド。そこにいるんでしょ?」
答えは返ってこない。ただ、あてもなく疑問が発せられただけ。にも関わらず、僕は話すことをやめなかった。
「キド。そこでいいから聞いて欲しい。」
ドアに向かい合い、そっと手をつく。僕らの間を隔てる一枚の板は、粉々にしてしまいたいほど目障りな存在だった。
「この間は、酷いことして、本当にごめん。」
凛とした静けさを保つ星空に、僕の声は吸い取られていくようだった。いくつか、淡い光を放つ星が散見できる。
「僕ね、ずっとキドから好きって言ってもらえるのを、ずっと待ってたんだ。」
恥ずかしながら、キドは僕のことを好きでいてくれているって自惚れていたんだと思う、と付け足す。そう言えば、喧嘩したあの夜も、こんな星空だったっけ、と思う。
「キドは僕に聞いたよね。俺たちは付き合っているのかって。 僕たちは、付き合ってなんかいなかったよ。多分、キドもわかっていたと思う。」
「キドは僕に聞いたよね。俺たちは付き合っているのかって。 僕たちは、付き合ってなんかいなかったよ。多分、キドもわかっていたと思う。」
言葉にしてみると、ああ、僕はなんて馬鹿みたいなことをしていたんだろう、と思う。それくらい、僕はわかっていなかったんだと思う。愛しいという気持ちの温かさを。恋というものの複雑さを。
「でもね、キド。僕はキドとの関係に、ちゃんとした名前をつけたい。」
ーー僕は、キドと恋人になりたい。
銀砂のように細かくきらめく星空の下で響き渡る自分の声に、恥ずかしさが、焼くような痛さで心の隅に答える。此処まで僕はしたんだ、どうか僕を拒否しないで欲しい、僕はそう星に願った。
もの憂い沈黙が、輪を描いて広がっていく。やっぱり、許してもらえる訳がないのかもしれない。おおいようのない終末感か暗い夕闇のように胸に沈み込む。
ああもう、何をしているんだ。心にわだかまった不安を振り払うように、僕は口を開いた。
「もし、キドが僕の望みに答えてくれるんだとしたら、ちゃんと、顔を見せてよ。」
ひとしきりして、鍵の開く音が、氷が寒夜にひび割れたように響き渡る。僕は、それを待っていましたと言わんばかりに聞きつけ、ドアノブを引き、中から出てきたキドを抱き寄せた。
「お前は、誰にでも前みたいなことをするわけではないんだな?」
微かに顔を赤らめて俯くキドに、前みたいなことって?と問う。
「き、キスしたり…。」
言いたくないというように視線を泳がすキドに、僕はそんなこと、キドにしかしないよ、と答えた。
抱き寄せたキドの身体に巻きつけた腕に力を込める。キドの胴体は細く、赤ん坊を抱いたときのように頼りなかった。できるなら、このままずっとこうしていたい。もう、日付けはとっくに変わっていて、辺りの建物から漏れる光はほとんどなくなっていた。
「カ、カノ…。」
「なあに、キド。」
さっきより一段と羞恥に顔を染めたキドは、刹那僕を見つめると、覚悟を決めたように一呼吸おいた。
「お、俺も、カノのこと…す…」
最後まで言い切らないまま、キドは言葉を途切らせた。正確にいえば、僕がキドの言葉を途切らせていた。あれ程待ち望んでいた言葉を、僕は言わせなかった。
そっと唇を離すと、キドは真っ赤だった頬をこれ以上濃い赤色があるのかというくらい、さらに赤らめた。
「キド。大好きだよ。」
ごめんね。でも、どうしても僕から言いたかったんだ。
【不完全で不安定で不明確な関係】
お題: 感情お題bot@壊れかけリメアータ様