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□ここに、いる
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もし、地球に摩擦力がなかったら。地球の自転の遠心力ですべてのものが宇宙に飛ばされて行ってしまうだろう。キドはそんな気分だった。遠い遠い終わりの見えない世界にただ一人取り残されたような。カノが死んでしまうのではないか、という不安ばかりがこみあげてきてのどの奥がぎゅっと絞まる。

「一人は、嫌だよ…。」

宇宙とはかけ離れた真っ白な空間で、キドの声は反響して霧のように舞い降りた。気が付けば外は夜の闇に覆われて、時折軽快なエンジンの音が鳴り響く。部屋の中は真っ暗だった。窓の重厚なカーテンが引かれ、室内の明かりはないに等しかった。夜は嫌いなのに、とキドは思う。にもかかわらず、照明をつけようとは思わなかった。少しでもカノから離れたら、カノはどこか遠くへいなくいってしまいそうだから。

人を寄せ付けないように整った顔で眠るカノの頬にそっと触れる。熱を持たないカノの頬は死人のようだった。それでもキドはそっとその頬をなぞる。

「生きろって言ったのはお前じゃないか…。勝手なこと言って…。」

乱れた呼吸からやっと出た、歯の間をようやく洩れる声が悲しい響きを伝える。やだよ、カノがいなくなるなんて。泣いていることを知られたくないという様子で、暫くキドは声をかみ殺して泣き続けた。

「ごめん…。」

そっと握り緊められた手に、小さな温もりを感じる。ゆっくりと顔を上げると、笑うような、はにかむような、不思議な顔の歪め方をして、それでも真剣な眼差しを向けるカノと視線が絡んだ。
外からはパラパラと包み込みような雨の降る音が小さく聞こえる。さらさらという肌寒い風が障子の穴から忍び込み、思わずキドは体を震わせた。

寒いから窓を閉めようか、と体を起こそうとするカノをキドは慌てて制する。如月先生が、安静にしてろと言っていたことを伝えると、カノは何食わぬ顔で平気だよ、と言う。

「どこが平気なんだ。いきなり倒れて…。」
「うん。今日はちょっと体調が悪かっただけ。」
「嘘だ。」
「本当だよ?」

苦虫を噛み潰したような顔をするカノに一息置いてから、なあ、と声をかける。

「お前は本当は俺よりも深刻な病気を持っているんじゃないのか?」

カノは案の定きまり悪そうに顔を背け、全身これエチケットの塊といった風で、固く構えた。空気が濃く重くドロリと液体化して、生温かい糊のようにねばねばと皮膚にまといつく。やはり、話してくれないのかだろうか。キドのは心の寂しさが満ち潮のようにじわりじわりと押し寄せてくるようだった。

「話したくなかったら別にいい。」

もう寝るから、と椅子から立ち上がったキドの手をカノは離さなかった。

「ごめん。ちゃんと、話すから。」

ただ、うまく説明できるかわからないんだ、と今にも泣きだしそうな表情で微笑むカノの手をキドはもう一方の手でそっと包んだ。




「末期がんなんだ。」

余命一か月。入院したのはだいぶ前で、自分がいつ死ぬかわからない。

「何で、すぐに教えてくれなかったんだよ。俺なんかよりもずっとひどいのに、俺の心配なんてして。」

初めて知らされた事実。想像を超えていて泣けばいいのか叫べばいいのか、それとも気を失えばいいのか分からない。

「キドに教えなかったのは」



心配されたら死にたくないと思ってしまうから。



キドの胸に怒りとも、憎悪とも、ものがなしさともつかない鈍い痛みのようなものが胸の奥底にわだかまる。

「じゃあ、俺に生きろって言ったのは…」
「うん。ごめん。キドに、僕の分まで生きてほしいって思ったから。」

結局自分のためでしかないんだ、と笑うカノの顔にはどこか寂しそうな面影があった。


キドは、一歩一歩を踏みしめるようにして、カノに近づいた。それから、カノのあまりいいとは言えない色の頬を右手に力を任せて思いっきり打つ。心当たりのないところに矢が飛んできたという顔でカノはいきなりなにするんだよ、とキドを見上げた。

「まだ、お前は生きてるじゃないか。今更そんな弱気なこと考えてどうするんだよ。」

今度は俺がカノの力になるんだ、とキドは一語一語に力を込めて、噛み締めるように言う。

「今、生きてるうちは何でもできるんだ。自分に制限かけたら死んだ後に悔むことになるんだぞ?それにだ。」



俺は絶対お前の心配なんてしないからな。



「キド。」

何かが吹っ切れたように曇りなく微笑むカノにキドはチクリという痛みを感じる。本当は心配でたまらないのだ。心配で心配で…

「キド、かっこよすぎるよ。惚れちゃうよ。ホント。」
「そうか?」
「うん。本当。ねえ、キド。」



愛してるよ。





もう限界だと言わんばかりに、糸が切れた首飾りの玉のような大粒の涙が散らばった。言ってはいけないのに。口にしても彼を困らせるだけなのに。どうしても言いたかった。会って、生きろと言ってくれたあの時からずっと…。

「ごめん。これ以上は口にしないで。」

口を開きかけたキドの口にカノが人差し指を当てる。

「これ以上言われてしまったら、僕はもう死ねなくなってしまうから。」




次の日から、TVで見るような、心拍数や呼吸を示す機器がカノのベッドの脇に置かれた。酸素マスクを装着され、点滴装置により、多くのモルヒネやステロイド剤が投与されている。カノはあの日からずっと秋の風のない日に木の葉がはらりと一枚落ちるみたいな、そんな感じで眠っていた。カノの生涯の列車は少しずつ速度を落としていて、何もない殺風景な平野の真ん中に停まろうとしている。















暗い部屋の中に、明るい光が平たい板のような形に射し込んできている。雨戸の隙間から射す朝の光だった。すがすがしい空気が霧のように部屋の中に滑り込んできて、キドは思わず伸びをした。そしてゆっくりと体を起こすと、自分だけを部屋に残して、周囲が消え失せたような静けさに顔色が蒼くなるのを感じる。ただ、部屋の外で医者や看護師が忙しそうにせかせかと歩く音が余韻を残していた。

「カノ…?」

もう話すことは出来なくなってしまったけれど、キドは決まり事のようにカーテンをめくってカノのベッドへ行く。話せなくなったとしても、ただカノの存在を確認できればそれでよかった。

しかし、カーテンをめくった先に、いつものカノはいなくて。
ごめん、助けてやれなくてごめん、と謝る如月先生の姿とそれを心配そうに見つめる榎本看護師の姿があった。

「カノ…?」

事態を察したキドは泡を食ってカノの元に走り、狂ったように叫んだ。

「嫌だ、カノ。嫌だ。どこにも行くなよ。俺を置いていかないで…」
「キドちゃん、、落ち着いて。」

榎本看護師が慌ててキドを抑える。激しく動いたせいでキドの肺は大きく悲鳴を上げ、苦しさに襲われた。ゆっくり、落ち着いて。榎本看護師は優しくキドの背中をさすってくれた。初めてカノと出会った時にカノがやってくれたみたいに。
胸に波のような悲しみが押し寄せてきて、キドはゆっくりと瞼を綴じて涙をこらえた。

「キドちゃんに渡したいものがあるんだけど。」

驚いたように顔を上げ、大きく目を見開いたキドに榎本看護師は一枚の紙切れを渡した。



『キドへ。

この手紙を読んでるっていうことは僕はもう、ここにはいなくなってしまったのかな?
短い間だったけど、キドに出会えて本当によかったよ。
僕はさ、この通り死んでしまったけど、君には生きる希望があるっていうことを忘れないでね。

勝手ながら、シンタロー先生に僕が死んだら、キドの肺の手術をするように頼ませてもらったよ。
僕の肺はまだ、健康だったみたいだから。

ずっと、君のそばにいてあげられなくて、ごめん。こんなに弱くて、ごめん。心配かけさせて、ごめん。強がって、ごめん。

偉そうなこと言って、ごめん。わがままで、ごめん。

でも。キドにはこの先もずっと生きててほしいから。


カノ』



「ごめんばっかり言ってんじゃねえよ」

瞳からあふれ出した冷たいものを服の裾で拭いながら、キドは困ったように笑った。


「如月先生。俺、手術、受けます。」


本当は、移植する相手まで選ぶことはできないんだが、本当にあいつは頑固だからな、と如月先生は結んだままの唇に微かな笑みを浮かべた。
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