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□ここに、いる
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病院に到着した救急車は、赤色灯の赤い斑模様を病院の壁面にぐるりと投げかけ、サイレンだけがやんだ。直後、晴れた空から静寂が降りてきて、スポットライトのように救急車の回りに無音の空間を作りあげた。
夜の闇は暗く濃く沖に追い詰められて、東の空には黎明の光が雲を破り始めていた。


〜ここにいる。〜


窓は閉まって、カーテンが引かれている。部屋の中の空気はもったりと重く淀んでいた。薬品や、花瓶の花や、病人の吐く息や、そのほか生命の営みが発する様々な匂いが、分かちがたく入り混じっている。少しばかり零れてくる程度の日の光は、黄燐をともしているようだった。
起き上ろうと力を入れたキドは、自分の体の異変を捉える。気がつかぬうちに口を謹かに開け、はあはあと荒い息を出していた。

「苦し…」

肺が搾られ、深い泥沼に沈められた時のように息ができない。この苦しさはいつまで続くのだろう。不安になり憂鬱になり空虚な気持ちになり、いつの間にかキドは声を上げて泣きだしていた。

「大丈夫、だから。ゆっくり、落ち着いて?」

泣き声で目が覚めたのだろうか。矢庭に、キドの隣のベッドで寝ていた猫目の少年がカーテンをめくってキドの横に座り、背中をさすってくれた。柔らかい眼差しを向ける少年に、キドは心ゆるびを覚える。

「あの、ありがとうございます。」

だいぶ落ち着きました、とはにかむと、少年はぱっと音を立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔を見せた。

「よかった、何でもなかったみたいで。僕は鹿野修哉。カノって呼んでね!!君と同じ107号室で入院することになったから、よろしくね!!」
「えっと…木戸つぼみです。こちらこそよろしく…。」

とぎまぎしながら話すキドに、少年は敬語じゃなくていいよ、とくすりと笑って自分のベッドへ戻っていった。それが、キドとカノの最初の出会いだった。







窓の奥から見えるコの字になったこの病院の中庭には、木々の間を縫うように遊歩道が設けられており、パジャマ姿の入院患者やその家族が、何日ぶりかで降り注ぐ柔らかな陽射しを楽しんでいる。
消毒液と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院をすっぽり覆って、看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。

肺気腫。確かに如月シンタローという医者はそういった。空気の袋である肺内の壁が壊れて空気を吐き出せなくなる病気。肺移植をしなければ死んでしまうだろう、と。悲しいことなのかもしれない。しかし涙は出なかった。小さい頃に事故で両親を亡くし、姉と二人暮らしをしてきたキドは、自分が死ぬことで姉の負担を減らせるかもしれない。そんなことまで考えていた。

部屋に戻ると、カノが心配そうにどうだった、と聞いてきた。いつとなしにカノとキドは仲良くなって、お互いを『カノ』と『キド』と呼び合うようになっていた。

「別に。」
「え、じゃあ、退院?」
「それは…違う。」

じゃあ、何とカノはため息をついて力のない目をキドに向けた。キドは、その目が見れなくてついつい俯いてしまう。

「肺気腫って言われた。移植しないと治らないって。」
「え、でも移植すれば治るんでしょ?」

カノは自分のことではないのに、さも自分のことのように世の中にこれ以上嬉しそうな表情はあるまいと思われるほど、ぱっと顔を輝かせた。その笑顔とは裏腹に、キドは萎れた花のように首を垂れる。

「俺は、移植しない。死んだ方がお姉ちゃんに迷惑かけないだろうから。」
「じゃあさ、何でキドは泣いているの?」

キドは驚いたように顔を上げて二度ほどカノを見た。それから、はぁ?と、呆れたような顔で首を傾げた彼女の目からは確かに水玉が無闇に頬を流れ出た。こぼれ出た一筋のそれは、天井の蛍光灯の照明を受けて、鈍い銀色に光った。

「俺は…死ぬべきなのに、生きてたって邪魔なだけなのに、心のどこかで生きたいって思ってるから…そう思ってる自分が、ずるくて嫌だ…。」

今度はもう我慢できなくなったというように、左腕を口にあてがいながら、思い切り噛みしばりながら泣き沈む。

「生きたいと思うことはそんなにずるいこと?」

優しく吐露された言葉にキドは恐る恐る顔を上げた。カノの深い思いを抱いているのだといわんばかりの真剣な瞳と視線が絡み、視線を少し横にずらした。

「キドが生きたいと思うならそれでいいじゃん。必要のない人なんてこの世には存在しないんだから。だからさ、生きれる可能性があるならそれを簡単に手放そうとなんてしてほしくない。」

キドは返事ができなかった。それは、カノの言葉に対しての怒りではない。死にたいと思った自分への怒りだった。カノはこんなに静かな目をしているのだ、と頭のどこかで考えていた。いったん言葉が途切れると、沈黙はまるで決められた運命のように、その部屋に重く腰を据える。開かれた窓からは風が入ってきた。風はカーテンを翻し、鉢植えの花弁を揺らし、開け放しになったドアから廊下に抜けて行った。

「今、元気?」
「は?」

ついと放たれた申し立てにキドは得体の知れない雲のようなものの上を歩くのに似ている疑問を感じ取った。さっきまで生とか死とか、そんなシリアスな事を言い合っていたとは思えない窓のブラインドを風が鳴らすような、軽い言い方だった。

「ちょっと、抜け出してみない?」



道路が何本も走って、公園や学校や教会や広場や無線塔や工場や港や駅や市場や動物園や役所や屠殺場がある。昼間の街は追い込まれたばかりの豚小舎のように賑やかに騒々しかった。雑踏が、古い色あせた壁の無数の亀裂に浸み込む雨水のように流れ込み、キドはカノと逸れないようにと必死で歩く。手を繋ごうか、というカノの言葉を素直でないキドはどさくさに紛れて触ろうとしてるんじゃない変態が、とと突き返す。

「ねえ、おなかすかない?」
「まだちょっと早いけどな。」
「あそこのクレープ屋さん、行かない?」

カノは子供が新しいおもちゃを与えられたときのようにはしゃいでいた。キドは入院してからまだ数日しか勝っていないのに、カノはずいぶんと長い間、外の世界に出ていなかったようだった。カノはどんな病気で入院しているんだろう。自分は何もカノの事を知らないんだな、と隙間風のような寂しさを感じた。

「こんなの、キドに似合いそうじゃない?」
「ばっ…そんなの似合うわけないだろう!!?」

カノが見せたのは小さな紫の花のついた指輪だった。

「っていうか、お前どこからそんなの持ってきたんだよ。」

ここは小物屋さんなんかではない。だから、指輪なんて買えるわけがなかった。

「んー。プリンに入ってた。」
「は?」
「クレープ屋さんでさ、売ってたんだよ。占いプリン。外れは何も入ってなくて、メダルが入ってたら金運アップ。指輪は…恋愛運アップかな。」
「だったらお前が持ってればいいじゃないか。」
「うーん…。でもさ、持つなら、似合うほうが持ってたほうがいいでしょ?」

そういってキドの指にカノは指輪をはめた。別に宝石が付いている高価な指輪ではないのに、それは鈍く輝いているような気がしてキドは思わず目を背けたくなってしまった。

「お前は…他に何かしたいことはあるか?」

自分ばっかり楽しませてもらっているような気がして、遠慮がちな目つきでこっそり盗むようにカノに視線を投げた。

「ゲームセンター…。行ってみたい。」

本当にいいの?と言わんばかりに目を輝かせるカノにキドは口もとを般若のように裂いてにんまりと笑う。

「よし、じゃあ、行くか。」




「うわぁ〜!!いつぶりだろ!!!」

UFOキャッチャーだ、とか、10円に両替が出来る機械なんてあるんだ、とか、とにかく遠足に行く小学生のようにカノははしゃいだ。

「僕がこういうの得意だったらなぁー。」
「なんだ、欲しいのか?」

セットになっているウサギのキーホルダーのUFOキャッチャーを見つめるカノを、なんだ意外と乙女な奴なんだな、とキドは思う。

「ち、違うよ!?キドにとってあげられたらなってさ…。」
「100円あるか?」
「え…?う、うん。キド、やるの?」
「ああ。さっきからお前、俺に俺にってばっかりだからな。」

ちょっとムカついただけだ、とキドはひょいっと舌を出した。コインを入れ、茶色と白のウサギに視線を集中させる。ボタンを押してゆっくりとクレーンを動かし、目的の場所より少し奥でクレーンを落とした。
二匹のウサギのキーホルダーは見事に入口付近で落下し、キドは急いでそれを取り出した。

「凄い!!!キド!」
「昔、よくやってたから。」
「本当は僕がとってあげられたらかっこよかったんだけど…。」

でもほら見て!お揃いだよ、と白のウサギを差し出し目を嬉しくてたまらないというようにキラキラ光らせるカノはすごくまぶしかった。

「悪い。トイレ…。」

なんだか恥ずかしくなって、その場にいたたまれなくなってしまってつい、キドはトイレを口実にしてその場を離れた。




トイレから戻ると、そこにはカノはいなかった。キドの心の中に拭き切れぬ影が雨雲のようにひろがった。慌てて昼間のにぎわった町すじを、猟犬のような眼つきで見まわすと、ベンチに横たわったカノを見つけた。

「カノ!!」

おい、どうしたんだよ。そう問いかけてもカノはごめん、と言ってか弱く笑うことしかしなかった。このままではカノが死んでしまう。そう思ったキドはカノを背負い、行き交う人を右に左に交わして小走りで病院に向かった。本当は走りたかったのだが、走れば自分も息ができなくなって倒れてしまうだろう、と考えたのだ。飛び立つような恐ろしさがこみ上げてきて、胃袋が炭火でチリチリ焼け縮まってゆくような感覚になる。何度か吐き出しそうになるのをこらえて行くべき場所へ急いだ。





「大分悪化してしまったようだな…。」

如月先生は申し訳なさそうに言う。キドたちが病院を抜け出したことは知らぬふりをしているのか、それとも本当に知らないのかわからないが、とにかく、カノの様子を見た先生は苦しそうだった。

「カノは、どんな病気なんですか?」
「どんな病気、か…。」

歯切れの悪い、舌足らずのような言い方をする如月先生は、教えてくれるようで教えてくれなかった。彼から聞いたほうがいいんじゃないか、と言って。糸が切れた操り人形のようにぐにゃりとベッドに横たわるカノは、触れれば崩れて消えてしまいそうなほど弱っていた。
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