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□ユキノシタの記憶 前編
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―――足の裏が擦り切れるくらい勢いよく地面を蹴る。反対側からやってくる人を右、左と交わして、駅のホームに向かう。心臓が破裂しようが、肺が悲鳴をあげようが構わない。とにかく今は走らなければ、もうあの人に会うことはできないのだから。
…くそ。何で教えてくれなかったんだよ。
あいつがここを離れるということを俺が知ったのは、たった今。
そんなこと、あいつが教えてくれるわけでもなく。
間もなく発車します、という合図とともに電車は、大きな動物が目を覚まして身震いするみたいな大げさな音を立てて扉を閉め、ゆっくりとプラットホームを離れる。
ああ、あと少しだったのに。
あと少しで、あいつにさよならを言えたのに。
「カノ!!!」
叫んでももう、届かない。
あいつを連れ去った電車は、小さくなって見えなくなった。
そうやって、俺の幼馴染は何も言わずに俺の前から姿を消した。
**
人々が早足に歩いていく。仕事を終えて、同じように帰路につく人々はみんな同じような歩き方をする。前にも後ろにも身動きできない程の群衆が押し寄せてきて、足がもつれそうになる。
ここの駅は、至って人が多い。都会の中の都会と言われるくらい栄えている場所だから、人が多いのはやむを得ないのだが、人ごみ中を歩くのはどうしても抵抗感がわいてしまう。
駅を出て信号を渡ると、道の左端に沿って確かめるようにして歩く。
二軒の古びた家の間のコンクリートの割れ目から生える猫じゃらし。排水口の周りには、うっすらと苔が生えている。何度も通ってきた道だから、どこにどんな雑草が生えているのかさえ覚えてしまった。
とうとう通りを抜けると、小さなバー店にたどり着く。
残業のない日の夜は、ここに寄ってから家に帰るのがお決まりなのだ。
チリン、という可愛らしい音を立ててドアが開く。
「いらっしゃい。」
いつとはなしに仲良くなったバーテンダーのセトが俺を出迎える。薄暗い照明がより一層ムードを引き立てる。
バックバーのウイスキーなどのボトルの前に、ひとつのひとつのボトルの名前と価格が表示されてある。必要の無い物という人もいるのだろうが、自分のようなたいしてウイスキーに詳しくない者にとってはありがたい。
「…今日も、いつものっすか?」
「ああ。そうする。」
いつもの、で通じてしまうくらいの常連になったのかと思うとちょっと嬉しいような恥ずかしいような気持ちになる。
「どーぞっす。」
ことんと置かれたウイスキーを、そっと手に取る。今日は疲れたから、といつもよりも大きいサイズで頼んだから、普段と違うグラスが新鮮に感じる。口に含むと、バニラとヘーゼルナッツの風味とともに、熟した林檎と蜂蜜の味が広がり、クリーミーでまろやかな舌触りが心地よい。
飲み終えるとグラスを静かにおいて、ウイスキーで程よく暖まった身体をゆっくりと起こしてトイレに向かった。
「キドさん大丈夫っすか?」
セトが心配そうに尋ねてくる。
「おう。多分ヘーキ。」
壁に片手をつきながらふらふらとした危うい足取りで歩く。
「うっ……。」
だんだんとアルコールが全身に回ってきて、目をつむっても世界がぐるぐる回っているようにくらくらとしてきた。
「うわっ。大丈夫ですか?」
倒れかけた私をふわふわとした猫毛の男の人が支える。懐かしい香りが胸いっぱいに広がって、心細くなる。この人には、以前どこかであったことがあるような、そんな気がした。
ありがとう、そういいたいのに目の前はカメラのシャッターが降りたみたいに真っ暗になった。
―――幼馴染のことを思い出した。
ある日突然、さよならも言わずに、さよならを言わせずにいなくなった幼馴染を。
**
3度目ぐらいの目覚まし時計のベル鵜の音で意識が覚醒する。今俺がいるのは紛れもなく自分の家で。
バーで倒れた後、どうなったのか全く思い出せないのだ。確か、倒れたときに支えてくれた男が、家まで運んでくれたような気がする。
「あ。もう遅刻だ。」
がばっと布団をはいで、ばねにはねられたように勢いよく起き上る。
時計の針はとっくに八時を回っていた。
後30分。ギリギリ間に合うか間に合わないか。
朝ごはんなんか食べる暇なく、着替えてすぐに家を飛び出す。通勤ラッシュはとっくに過ぎたらしく、駅に群がる人の数はいつもよりもすくなかった。
電車を降りると、ちらちらと腕時計を見ながら秒針と競うようにせっかちに歩く。
「おはようございます。」
朝の職場は忙しそうに人が行き交っている。自分のデスクまでせかせかと歩いてどさっと荷物を下し、コンピューターの電源を入れてふう、と一息つく。どうやらぎりぎり間に合ったようだった。
「あ。」
うっかり声を出してしまった。
だって、いつも俺の隣に座っているキサラギの席に、昨日バーで助けてもらった男がいたから。
男は、ゆっくりと椅子を回転させて振り向いた。
「どうか…しましたか?」
「あ、いえ。キサラギ…さんは?」
「ああ、キサラギさんなら、しばらくアイドルのこともあってお休みするそうですよ?あ、僕は今月移動になりました鹿野と申します。」
「そうなんですか。えっと、私は木戸です。」
どうぞよろしく、とお互いぎこちない笑顔で微笑む。
「あの…。」
「はい…?」
「き、昨日のバーでは大変ご迷惑おかけいたしました。」
しばし沈黙したあと、鹿野さんはくすっと笑った。
「いえいえ。これからは気をつけてくださいね。」
その時、わかってしまった。昨日からの違和感。なぜ俺の家を知っていたのか。
なぜその、生意気な微笑もふわりと漂う甘い香りもすべて懐かしいと感じてしまったのか。
鹿野修哉。
そいつは、俺に何も言わずに突然姿を消した、幼馴染だった。
**
レールのうえを、電車は単調な音を立てて走る。目的地に向かって一直線にひた走っていく電車は、なんだか退屈だ。
「あれ、木戸さんも一緒の電車ですか?」
振り向くと鹿野さんがいた。にこにこと笑う鹿野さんの顔は、やっぱり懐かしい感じがした。
「鹿野さんも今帰りなんですか?」
「アハハ、別に追いかけてとかじゃないですから、そんなに不審そうな顔しないで下さいよ。」
ね?と覗き込まれて流れのまま「はい。」と答える。
鹿野さんは、私のこと、覚えていないのかな。もう、とっくに幼馴染のことなんて忘れてしまったのかもしれない。
本当は、鹿野さんとしてではなくて、カノとして話がしたいのに、私あなたの幼馴染だっんですけど覚えてますか?なんて聞けるわけもなく。
「小さい頃、突然いなくなった、忘れられない幼馴染がいるんです。」
矢庭に口を開く。ちょっと遠まわしに、聞いてみようと思って。
鹿野さんは目を空気銃で撃たれた小鳥のように丸くした。
「毎日よく一緒に遊んでて、でもある日、そいつは私に何も言わずに、電車に乗ってどこか遠くへ行ってしまって。…だから、いつも電車に乗るとそいつのことを思い出してしまうんです。」
いい年して、しょうがないですよね、と肩をすくめて見せる。ちょっとみえみえな話だったかもしれない。
しばらく何もしゃべらずに鹿野さんの返事を待つ。車内には沈黙が降りた。ガタンガタンと電車の走る音が明瞭に聞こえる。
「僕にもいますよ。忘れられない幼馴染が。」
ふっと発せられた言葉。鹿野さんの顔は窓の外に向けられていて、どんな顔をしているのか、わからなかった。
電車は、徐々に速度を落として、プラットホームにぴたりと停止する。その駅で降りる乗客は一人もいなかったし、その駅から電車に乗り込む人もいなかった。それでも電車は律儀に駅に停車し、1分後に発車した。
再びガタンガタンという心地よいリズムが刻まれる。
「あ、あの、次の駅で降りますね。」
「あ、うん。了解です。」
その場の雰囲気にいたたまれなくなって、家まで少し遠くなるけど降りることにした。
小さな沈黙の中、電車は再びブレーキの余韻を残して停車した。
「あの…」
鹿野さんが口を開いた。
「何も言わないで、遠くに行って、君を一人にさせてしまってごめん。」
「え…?」
電車の扉が開いた。
「って幼馴染に言わないとなぁって思って…。アハハ。木戸さん、じゃあね。」
小さく手を振って電車を降りる。たいして広くも狭くもないごく普通の駅。
……ばればれだっつーの。
鹿野さんは、ちゃんと俺が幼馴染だって知っていた。知っていたけど、口にしなかった。
……似た者同士、か。
ふふっ、としらけた笑いが浮かんできた。