作品一覧

□ブランケット症候群
1ページ/1ページ




−−−たくさんの『あい』を集めたら、言葉に乗せて君に届けよう。この『あい』を君が手にしたとき、君が笑顔になれるように。



『あい』が、愛だけで定義されるか、といったらきっと違う。『あい』は、単純そうに見えて単純じゃない。もえだしたばかりで、かぼそい葉脈のうきでた草の葉の根っこみたいに。上に出ている部分はちょっとでも、ひっぱっているとずるずる出てくる。
では、『あい』が愛だけでないならばいったい『あい』とはなんなのか。

ある人はこう答えるかもしれない。---『会』。この『あい』は人と一緒になり、互いに認めたり話し合ったりするという意味をもつ。辛くて、苦しくて、油が尽きて段々と細くなっていく灯火を見ているような、そんなはかない無力さに見舞われた時。この『会』は、きっと貴方を救ってくれる。

次の人はこう答えるかもしれない。---『合』。この『あい』は、その人といるうちに相互に感じる好悪の感情という意味をもつ。誰かを好きになり、誰かを嫌いになる、このシーソーのような相反する感情の波動に貴方は胸が虚ろになるような味気ない思いを抱くかもしれない。しかし、これらの感情は、一人きりでは決して持てない。この『合』はきっと貴方の心を豊かにしてくれるだろう。

また、次の人はこう答えるかもしれない。---『哀』。この『あい』は心を痛める、かなしむという意味をもつ。人生において、必然的といっても過言ではないほどに訪れるこの『哀』という試練は、モノによっては貴方の全てを白紙に戻してしまうかもしれない。しかし、この『哀』は、貴方に生きるという大きな勇気を与えてくれるだろう。

最後の人は、こう答えるかもしれない。---『相』。この『あい』は、互いに、一緒にという意味をもつ。胸の片隅に持ちこんできた、ものがなしく、どうにもやりきれないがらんがらんの風穴は、誰かと一緒にいることで初めて埋められる。この『相』は、そんな温かさを帯びて、貴方にささやかな安らぎを与えてくれるだろう。


『あい』。50個しかない言葉の中で、その先頭に並ぶふた文字。その意味を、君に出会えて俺はわかったんだろう。

このたくさんの意味をもつ『あい』を、俺は『愛』という文字に収めて君に伝えたい。


ブランケット症候群。
〜貴方に依存(あい)しても良いですか? 〜




ここから飛び降りたら、自分は死んでしまうのだろうか。古びて、今にも壊れてしまいそうなフェンスに全身を預けて下界を見下ろすと、夏の熱気でぼーっと、紺碧の色に霞んだ海が見晴らせる。陽がさすと、海面がうすい水色に透けて、夥しい金色の粉が浮いてみえた。
視線を少しだけ手前にずらすと、海岸では元気に遊ぶ子供達やカップル、家族などの観光客で賑わっている。キドにはこのざわめきが、祭りに興じる見物人たちのどよめきのように聞こえた。自分とは縁の無い世界だ、というようにキドは小さくため息をつくと、フェンスを乗り越えようと片足を振り上げた。

ーーもう、こんな世界は必要ない。

崖というほどでは無いが、浜辺にいる人間が指で摘めるくらいの大きさに見える高さはある、その道路の折れ曲がった部分の灰色が、地球の傷口のように底深い口を開けている。キドは油が尽きて段々と細くなっていく灯火を見ているような、はかない無力な気持ちに締め付けられた。あと一歩、この障害を飛び越えられれば、きっとそこは天国ーーーー。

「ちょっと。」

指先が肉に食い込んで痛いぐらい強く腕を握られる。振り返ると、色素の薄い癖のある猫っ毛が、太陽の光に反射して目を刺激する。身長こそは自分と変わらないか自分よりも小さいけれども、ああ、男の人なんだな、とキドは単純に思った。
遠方の砂浜から聞こえる蜂の巣を壊したあとみたいなざわめきと相反して、キドと男の間には重い沈黙が降り注ぐ。耳元で、しきりに風の音が鳴った。冷たくはないが、たっぷりと潮を含んでいるため、頬へ手をやると粘つく感触が指先に残る。

「何…してるの?」

笑っているのか、怒っているのか、正反対の色の絵の具をぐちゃぐちゃにして混ぜたみたいな瞳でキドを捉える声の主に、キドは無形の大磐石のような圧迫感を覚える。それは、キドに空虚と不快な動揺を与えるようなものだった。

「別に、お前には関係ない。」

関係ない。だからもう構わないでくれ、というようにキドはそっぽを向くが、「関係無いけど目の前で人に死なれたらこっちも気分悪いんだけど。」と、相手も腕を離してはくれない。怒りが口を押し開けて、笛のような息とともに外にあふれ出してくる。誰もわかってなんかくれるはずは無いんだ、とキドは思う。大切だった人が皆いなくなり、お金が無い中苦しい生活を毎日ひたむきに送らなければなら無い虚しさを。胸を突き上げてくる気持ちで闇雲に涙が溢れてきそうになり、キドは慌てて口元を隠す。
ふと顔を上げると、からりと晴れた空には砂のようなすじ雲が撒き散らされていて、キドは途端にその雲が恋しくなった。あの雲は『死』という選択をしなくたって簡単に天国までたどり着けるのだ、キドはそのすじ雲になりたいと思ったーーーーーー

「泣きたい時は、泣いたっていいんじゃない?」

遠くの方でなる海のざぶんという重い音が先だったか、目の前を河が流れるように快調に通る車の音が先だったかわからない。とにかく、沢山の音が一度に耳の中に進入してくるようだった。音はキドの心を激しく揺さぶった。まるでキドの感情全てを繋ぎ合わせていた多くの糸を一度に切り落としてしまったかのように。

不意に、キドの目から溜まりに溜まっていた熱い泉が堅い地を破って、一時に迸って来たように、涙が溢れ出た。顔を覆い、誰にも気づかれぬように必死になって声を押し殺す。しかし、一旦流れ出た涙はそう簡単には止まらなかった。気がつくと、キドは両手を地面について前かがみになり、まるで吐くような格好で泣いていた。
男は何も言わなかった。ただ、白い無地のハンカチをポケットから取り出すと、徐にキドに手渡した。それ以外励ますことも、キドに触れることも、謝ることもせずにただその場を静かに離れていった。それはまるで遠くの海の青色に吸い込まれていくようだった。

白い波頭をならすように湖心を風の脚が移って行く。キドは潤んだ両眼を力任せに袖で擦ると、渡されたハンカチを割れ物にでも触れるかのように大事そうに広げた。末端には小さな刺繍がされている。

『カノ シュウヤ』

先刻の男の名前だとキドはすぐに分かった。気まぐれな人だったな、とキドは思う。死ぬなと言ったり泣けと言ったり。終いには何も言わずに居なくなってしまう。
キドの口元には、微笑とも羞恥ともつかないものが浮かんだ。空は大地を吸い込むように広々と青く澄み渡っている。途絶えさせるにはもったいない、とキドは思った。今日という日は、残りの人生の最初の一日なんだから。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ