潮流盛衰記(うしおりゅうせいすいき)

□第2章:渚の事情
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何十畳もの畳が敷かれた部屋の奥に、渚の母親は休んでいる。彼女は現在若干心を病み、一日の大半は屋敷の最奥に位置するその部屋から出る事はない。しかし、彼女を見舞う渚の日課が途切れる事は無い。渚にとって大好きな母の側近くにいける喜びと、それをかすかに上回る悲しみに彩られる時間だ。
 彼はいつも(・・・)通り(・・・)の振り袖姿で廊下に膝をつき、障子越しに母親へとおとないを告げた。程なくして室内から嬉しそうな声で入室許可が下り、楚々とした仕草で渚が入ると、彼女は床から起き上がってゆったりと微笑んだ。

「母上様、お加減いかがでしょうか?」
「ああ渚、振り袖の薄紫がよく似合うこと。そうね、今日は少し調子が良いみたいなの。さ、髪をいじらせてちょうだいな。折角の振り袖も、そんな無造作なままでは勿体ないわ。」
「…はい」

ゆっくりと1回。まばたき1つの間をおいて、彼は母親の元に行き、髪をまとめやすいように少しかがんで座った。母親は手元においてある螺鈿細工の化粧箱から、漆塗りのくしを取りだして彼の髪をすき始める。彼の春空色の髪は、すけばすく程に艶が増す。ある程度までくしけずった髪を濃紫の飾り紐でまとめ、しゃらりと涼しげな音を鳴らす銀細工の簪をさすと、彼女はその出来栄えに満足そうにほほ笑んだ。

「とても美しくてよ、渚。流石は我が一門の姫だけあるわ。今年でもう15にもなるのだし、来週には例の大会もあるわ。あなたなら引く手あまたでしょうね。」

(いつまで続くんだろう、この茶番は。)

 暗い瞳で呟く胸の内とは裏腹に、口を付いて出るのは別の言葉。母親を喜ばす為とは言え、思ってもない事を。

「…ありがとうございます母上。一等強くて素敵な方をものにしてごらんに入れます。」

案の定、嬉しそうに頬をなでる手の平のぬくもりに泣きそうになった。どうして、素のままの自分では駄目だったのだろう。母をこんな風に笑わせる存在は。そして、脳裏にちらりと巡るのは、会って間もない友人の事。

(カルマ君は、こうしてる僕をどう思うだろう…)

彼とは最初の出会いからすでに何回か会っている。意外に話し易く、映画や本の趣味もあう事が分かってからは、彼の方からこっそり泊まりにくる事もあった。あの何事にも動じない又風のような少年が、今のこの姿を見れば、軽蔑するだろうか。彼の瞳が侮蔑の色を浮かべるのを想像した渚は、にわかに鋭い胸の痛みを感じた。嫌だ。早々に母親の元を辞し、廊下に出ながら深くため息をつく。同時に心の声がダダ漏れになった。

「カルマ君には、見られたくない…。こんな情けない姿見られたらホントに嫌われちゃうよ…。」
「えー、全然嫌う訳ないじゃん。すっげー綺麗だよ渚くん。」
「そうかな、なら嬉しいけど…って、ええ!?嘘、カルマ君!?」

声の在りかを探してみれば、庭で一番背の高い木のてっぺんに彼の姿を見つけて唖然とする。ほぼ電信柱と等しい高さだ。あんな所に、しかも夜に登るべきではないのに。焦る渚を笑う様に、カルマは器用に枝を伝って下りて来た。渚のすぐ目の前の地面まで来ると、首を傾げてしげしげと彼の姿を眺め、何やら納得した様子でほほ笑んだ。

「渚君が、前に言ってたのって、それ?」
「え…?」

『渚君のお母さん病気なの?じゃあ、今度お見舞いさせて。』
2日程前の四方山話の中で、渚の家族の事が挙がった。母親の容体について知ったカルマの申し出に対し、渚は少しだけ困ったように笑って言った。
『うーん。お母さんの所に行くって時は、僕、カルマ君に嫌われる覚悟しなきゃいけないからなぁ…』

「あ…僕、…」

はっとしたようにわが身を見つめ、いたたまれ無さに身を翻そうとした渚の手首をカルマが握りしめ、動きを封じた。凄い力だ。門下生にあるような筋骨隆々とした印象は一つもないのに、彼の腕力はとてつもなく強かった。バネ自体が強靭なのだろう。驚いて見つめる渚を猛禽類の瞳が捉え、次の瞬間にはぐっと引き寄せた。自然と彼の胸に倒れ込む形となり、胸板に手をついて眼を見開く。離れようとするもしっかりと背中に腕が回されていて、振りほどけなかった。すぐ上から、低く優しげな声が降って来る。

「ずっと話してて、俺、何かこの子、色々抱えてんだろうなぁ…って思った。多分俺が想像できないような世界に生きてるんだろうなぁって。」
「…」
「もっと、楽しそうにして欲しいって思った。不安に何かならないで、俺と一緒に普通の友達してればいいのにって。でも、」

何かを隠しながら、不安を感じながらで全力で楽しめるって、俺思えない。まして、君が背負うものを分かるなんて、同じテリトリーにいないと無理だ。だから。

「俺に話してくれないかな。俺たちがきちんと「友達」できるように、渚君の不安に感じる要素を、出来る範囲からで良いから。」
「急に、そんな…」
「うん。俺、思い立ったらすぐ行動派の人間だから。でも、今回は特に気になっちゃったから。ねぇ、渚君?」

―来週、一体何が起こる予定なの?

その問いかけは渚の体の奥底に染み込んでいき、彼の透き通った瞳から涙をあふれさせた。
 来週の中日、形上の婚礼があるんだ。渚の唇が紡ぐその言葉の意味を、カルマは最初理解出来なかった。

「婚礼って…結婚、てこと?」
「うん。表面上だけ。」
「…。誰と…?」
「決まってない。正確には、その日に決まる筈なんだ。」
「待って、俺訳分かんないんだけど。」
「ん、順を追って話すよ。でも、重苦しい話だから、聞きたくなくなったら言って。」
「…話して」

 僕には昔、お姉さんが居たんだ。僕が生まれる前の話。その子は凄く素直で可愛くて、お母さんには自慢の娘だったんだって。でも、そういう人ほど短命なのかな。4歳の時に病気で亡くなった。それからお母さんは狂ったみたいになって、頻繁に寝付くようになった。しばらくしてお腹に僕がいる事が分かったらしいけど、その時お母さんは「お姉さんの生まれ変わりだ」って思ったらしいんだ。実際、十月十日たって生れて来た僕は、男だった事を除けばその姉に瓜二つだった。そしてお母さんは今、僕を女だと暗示する事で、自分を保ってる。父は武闘派で典型的なうちの流派の人だけど、母がとても大切だから、彼女には逆らわない。怖いんだ。目の前でまた狂ってしまわれる事が。必死で修復してきた幸せがまた壊される事が。無論、それが正しいやり方だと思っていなくても。

 僕ら家族はそうして僕が15を迎える今年まで過ごしてきた。15歳。当主の子息にとって、この年にはある重要な大会が行われる。流派継承者の選別を目的とするものだ。何という事は無い、と言えば変だけど、要するに門下中で誰が一番強いかを問うものなんだ。跡継ぎとなる者はそこで自分の優位性を再確認し、周囲に知らしめる。けど、跡継ぎがふさわしい格を示せない場合、まぁ、僕みたいに門下生としてあるまじき位に弱くて、同時に女として振る舞わなければいけない立場にいる(そんな特殊例めったにないけどね)場合も含め、自分のパートナーとなる人間をその大会で選ばなければならない。将来性があり、カリスマがあって、一緒に流派を盛り立てていける人物を選ぶように跡継ぎは求められる。実際に僕が女だったら、それはつまり、将来の婚約者を選ぶも同然なんだ。って、まぁ、そういう事。

「つまり、渚君は格を示せない位に弱い上、お母さんの手前女の子として出席するしかないから、戦う前から不戦敗って事?」
「そうなるね。それにうちの流派の人ってさ、こういうとなんだけど、物凄く肉食系だから。相手が女性でもそうでなくても、結構イケるみたい。そう考えると、事実上僕に逃げ場はないんだよなぁ。」
「…その大会、効力はどこまでなの?」
「普通に行けば、継承者が女性の場合は結婚して次の跡継ぎが生まれるまで。僕の場合は例えば僕が結婚して自分の子供が生まれて、その子が強い子だったらその子に継承権が移るけど、パートナーとして選んだ相手の影響力は多分、死ぬまで続くと思う。その人が死なない限り。」
「ふうん…、割とやばい仕組みなんだね。で、相手の目星は付いてるの?」
「…父が推薦してるのは、僕の3つ上の門下生。前は僕を“おかま”とか言って取り巻きと一緒にからかってたけど、この大会に名前が挙がってからは変に…なれなれしいと言うか、何と言うか…」
「…ははーん。いやらしい感じなんだ?」
「……勘違いだと思いたいけど、キャラ的に有り得ない話じゃないんだよね。」

  以前、1対1の組み手練習と称して柔道場で押し倒された事もあった。あの時はカルマ(犬)が飛び込んできて助かったけど、万一彼がパートナーに決まった場合、僕は彼のおもちゃになるしかないんだと思う。でも、他に彼より有望な門下生は、今うちには居ないし。

「渚くん…変な質問するけど、真剣に答えて。」
「?うん。」
「渚君は、その彼と僕、どっちが好き?」
「…はい?」
「いいから答えて。僕とその相手、結婚相手として選ぶならどっち?」

カルマは真剣そのものだったが、そんなもの改めて訊かれるまでもない事だった。

「絶対カルマ君」
「よし良く言った。」

 その翌日、潮流に半ば道場破りのような形で弟子入りを果たしたカルマに、渚が貧血を起こして卒倒したのは言うまでもない。運命の大会まで、残り5日を切っていた。

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