殷の花

□想い破れしその後に
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数週間が過ぎた。表向き申公豹と廉紀のぎくしゃく感は消え去り、平凡な日々が戻っている。申公豹と黒点虎の観察対象が、少しずつ封神計画に移ってきた為でもある。

しかし黒点虎は知っていた。廉紀の様子は未だにおかしい。時折見せる陰りのある表情が、彼女の葛藤を物語るのだ。そしてある日、劇的な変化が訪れた。

「ねぇ、申公豹?」
「何です黒点虎。」
「封神計画見るのも楽しいけどさあ、君の身近な不思議の観察はもういいの?」
「…ああ、廉紀ですか?勿論まだまだですよ。ただちょっと、今気になるのは太上老君の見ているモノの方とい
うだけで。」
「ううん、確かにそっちの方がはるかに重要だけど…」
「どうしました。珍しいですね、あなたがそんな些末事に気を配るとは。」
「だって申公豹。心花を見てよ。色が変わった。」
「色?」

 薄い紫を帯びていた桃色の花弁は、今や深い海の青と化していた。どことなく元気もない。はて、これは一体。随分な変わりように、さすがの申公豹も目をむいた。

「ダークサファイア…」
「すっごい深い青だよね。もう透けているのかすら分からない位。」
「美しい事は美しいですけどね。」
「これはどういう心境なの?」
「―深い悲しみ。」
「―。」
「どうしたのでしょうね黒点虎。廉紀が私を避けるようになって、少し距離を置いてあげようと、一応これでも気を遣っていたつもりなのですよ?殺しかけた負い目もありますしね。それがまぁ、どうも廉紀の事となると、空回りをしますねぇ。慣れない事はしないものです。」
「…君が原因かは分からないけどね。どうするの?」
「問いただします。下手をすれば赤系好きの妲己に首をはねられますよ、これでは。」
「どっかの女王さまみたいだね。」(正解:不思議の国のア●ス)
「事実女王ですよ、彼女は。」
 
 部屋に戻ると、廉紀は丁度こちらに背を向けて何やらがさごそやっていた。見れば、彼女の使っていたクローゼットやら棚やらが、空になっている。そして彼女の手前には大きめの旅行用鞄。何をしているかは明らかだった。

「…荷造りとは妙な事ですね。使用人の分際でどこぞに旅行でも?」
「し、申公豹道士…」
「…どこに行くのです。」
「ちょ、ちょっとそこまで…」
「随分な大移動なのですね?日常的に使う品のみならず、備蓄用の品まで持ち出す程とは。」

 あからさまに「しまった」という顔をするものだから、腹立たしく感じてしまう。部屋を引き払ってまでする旅行はすでに旅行ではなく引っ越しだ。では、どこへ、何のために?

「……そうまで私が嫌いですか?」
「ちがっ!そういう事ではなくて!」
「では何だというのです。わざわざ私直々に妲己にあなたを貰い受けまでしたというのに、その私に一言の相談も許しを請う事もなく、さっさと逃げの算段とは、…良い度胸をしているではありませんか。」
「…っ」

 部屋の中を微細なプラズマが幾筋も駆け抜ける。知らぬ内に手が雷光鞭へ伸びており、表情がいつにも増して能面のように硬質なものとなっていくのが分かる。自分でも何故こうも腹が立つのか分からない申公豹は、苛だたしさのままに、怯えて固まる彼女に詰め寄った。自分の腕と壁に挟まれた彼女の瞳孔が恐怖で見開かれるのに一抹の寂しさと、かすかな興奮を覚える。その漆黒の瞳には今、彼女が自分をどう思っていたとしても、自分しか映っていないのだ。その事が、何故か酷く自分を高揚させている。

「申公豹道士…」
「私の美学に反する者―それは筋の通らない行動を取る者、甘えた考えの者、私にとっての邪魔となる者。まあそんな位ですが廉紀、今のあなたはそんな内の一人です。別の部屋に移るにも職を変えるにも、どの道今はこの私を通すべきではありませんか?さあ白状なさい。何故私を避けるのですか。今日こそ理由をはっきり言うのです。」
「理由なんて、」
「誤魔化すなら―殺します。」
「―、どうして」

眼差しで居抜くと、唇を噛んで下を向いてしまった。その内かすかな声が何度か呟く。どうして?と。全く、それはこちらのセリフだ。みけんにしわを寄せながら、一応は続きを待った。

「どうしてそうまで私に構うのですか。あなたに構われ出してから、正直どうして良いか分からない事ばかり。私だけどきどきしたり悲しくなったり嬉しくなったりして。その癖あなた自身は何も見ないのだから性質が悪い。そんな状態でどうして一緒の部屋に置こうなんて……こんなの拷問です。」
「…廉紀?」

 水晶のようだと思った。大粒の、転がり出る涙形のそれらが、不謹慎ながら美しくて。

「どうして、泣くのです、」
「…本当は、言わないで離れたかった。怒られても嫌われても問い詰められても、落ち着いて大丈夫になったら、何食わぬ顔していればいいって。けど、」
「廉紀、廉紀、訳が分かりません。」

ぎゅう。

 間近でうつむいたままの廉紀が、急にきつく申公豹の胸元の衣服をにぎりしめ―。

「ごめんなさい道士―私はあなたが、好きなんです。」
「…………………はい?」

今彼女は、何と言ったのだろう?



 夕闇が支配する部屋の片隅。いつもの倍程に目を見開いた申公豹が、真っ赤な顔をしてぼろぼろ涙をこぼす廉紀を壁際に追い詰めたまま困惑していた(無表情で)。

「……廉紀は、太公望が好きなのではないのですか?」
「それは申公豹道士が勝手にそう思っただけです。」
「では、何故私を避けたのです?」
「…大変お恥ずかしい話ですが、申公豹道士に人工呼吸と心臓マッサージをして頂いた事が原因です。意識している方にそんな処置をして貰ったなんて、救命行動と分かっていてすらどきどきして―顔向けが難しかったのです。」
「…恥ずかしい?ですか?」
「〜〜〜接吻と接触、という気がして…っ」
「(ああ、俗世的にはそういう…)そもそも何故私を?」
「〜〜〜そんなの私が知りたいですよ!格好は個性的だし(←地雷を踏んだ事にも気付かない)、何を考えてるか訳分からないし、強引で行動も謎だし!それなのに最強だとかギャップが激しくてかっこいいし!」
「かっこいい……(初めて言われました)」
「〜〜〜〜もういいですか!?」

 涙目できっ、と睨まれても全く怖くはないが、話を聞く内に全てが腑に落ちた申公豹は、大人しく彼女を囲む腕をどけた。だが、距離はそのままだ。何と言うか、さっきまでのイライラはどこへ行ったのかと思うほど頭がすっきりしていた。ほんのりと嬉しいと感じてもいる。しかし、ともかくも答えは決まっているのだ。

「ありがとうございます廉紀。しかし、恐らくあなたが想像していた通り、私はとうに人間を終えた身の上です。人を相手に恋愛などは、する事がないのです。」
「…」
「ですから、今のあなたの想いに応える事はできません。」
「…始めから分かっていた事でした。だから伝えたくなかった。本当は。」

 彼女はうつむいた顔を少しだけ上げ、紅く潤んだ瞳を諦めたように揺らした。何故だか目が離せなかった。

「でも、これで良かったのです。終わる時は潔い方が良いから。…ありがとうございました、申公豹道士。思いがけなくですが、あなたにお会いできて良かった。」
「…やはり出て行くのですか?」
「気持の整理をつける権利位は、人間にもありますよね?」

 申公豹は一瞬眉根を寄せたが、しかし何も言わずに彼女から離れた。それが自分に出来る最大限の心遣いだと思ったからだ。廉紀はただ小さく会釈して、そのまま荷物を持って部屋を後にした。入れ違いにのっそりと黒点虎が入って来る。彼は小首をかしげながらも、何も言わなかった。だから分かってしまった。

「黒点虎、あなたは気付いていたのですか?」
「うん。まあ多分、こうなる事まで含めて。」
「思い留まらせようとは思わなかったのですね…。」
「うん。だってそんなの、僕の役じゃないし。それに僕的には、申公豹も満更じゃなさそうだったから。」
「私が?冗談でしょう?」
「いいや?だって申公豹は、興味を抱くのも無くすのも早いけど、女性に対して自ら興味を持って観察するって、出会って数千年全くなかったよね。っていうか見た事ない。それなのに結構な気に入りようだったしね。」
「そうでしたっけ。」
「うん。君はいつもやっかいな楽しさばかり求めていたし、どの道仙人だから要らない感情だったんだろうけど。」
「…その通りですよ。」
「その割にさっぱりしない顔をしてるけど?」
「そりゃあ、後味くらい悪くなりますよ。一応想いを無下にした訳ですし。」
「それだけかなぁ。ねぇ、申公豹。あの子は人間だから、これから先誰かを見つけて恋をするよね。その誰かが誰かは知らないけどさ。」
「…そうですね。」
「君はあの子が誰か別の男の隣にいる所、想像できる?というか、して耐えられる?」
「それはまぁ、多分。」
「……ふうん。」
「………何ですか黒点虎。」
「別に。申公豹ってさ、いつも大体ポーカーフェイスだけど、感情を入れないように意識している時程、完璧に能面だから、逆に分かり易いよね。」



 翌日から彼女の姿が見えないと思っている内に、暦の上で3ヶ月ほどが経過した。流石に何やら気になって調べて見ると、なんと城内から姿を消している事が分かった。黒点虎は知っていて、「割と早くに出て行ってたよ」と驚いた事を抜かす。何故か焦りを覚え、「それで今どこに?」と尋ねると微妙な顔をされた。

「な、何ですか?」
「知ってどうするの?」
「いえ、ただ気になったもので。」
「振ったのに?」
「あれは仕方のない事でしょう?どうせよと言うのですか黒点虎。」
「仙人だって結婚したりしてるじゃない。やっぱり申公豹は、あの子にそれ程の興味はなかったんだよ、きっと。」
「―仙人の相手は仙人でしょう。彼女は人間だ。」
「違うんだな、これが。申公豹、あの子の出生を訊いてたよね。興味あるのかと思って勝手に調べたけど、あの子、実は一回死んでるんだ。正確には人間じゃないんだよ。」
「何ですって?どういう事です?」
「彼女は蓮の精なんだ。」

黒点虎が語ったのは、次のような事だった。

 今から二十数年前、彼女は間引きとして蓮の池に捨てられた。生まれたての赤ん坊は泳げないし助けを呼べない。普通に溺死したんだよ。ただし、崑崙山の道士が一人、そこを通りかかった事が命運を分けた。彼は蓮間に沈む赤子に情けをかけた。宝貝を埋め込んだ「宝貝人間」第1号、いうなれば試作品を作ったんだ。今太公望の下にいるナタクとかいう宝貝人間はその改良版だね。そこで彼女は蓮の葉の上から人間の両親に拾われ、育てられた。彼女が花を育てる才能があるのは、花の精の特性による所が大きい。花が花を呼ぶんだ。それに、仙人がプロデュースした蓮だよ?凄く清浄な気を受けてる。そりゃあ心花も開くよね。彼女は自分が人間だと思っているから人間速度の成長を維持してきたけど、成人だから、その気になれば留まる事もできた。つまり申公豹、君や僕とも生きられた。

「知りませんでしたね…随分隠行の術が巧妙だったのか…」
「歴史の道標にばっかり目を向けてるからだよ。本当はもっと早くに気付いて良かったんだ。君の頭だったら分かった筈だ。彼女を受け入れる事は出来たんだ。」
「黒点虎…、変な事を訊きますがね。何故ずっと過去形で話しているのです?」
「だって彼女はもう彼女じゃないから。」
「どういう事です?」
「妲己が種にしてしまったよ。」
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