殷の花

□妲己の独り言
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人間世界の常識が一切通用しない、独自のことわりで動く仙人界ですら扱いが難しい花―「心花」(しんほあ)。読んで字のごとく、「心の花」である。

これは植えた人物の心の在り様を如実に再現する花で、色、形、寿命、咲く姿や効能に至るまで、全て育成者の内面の状態によって変化する。花により、その心根がみにくいと判断されたなら花弁はどす黒く、あるいはもっと別のグロテスクな彩色・形となる。また毒性があり、醜悪な香りもする。しかし、毒性の故に短命で、朝に咲けば夕べに枯れるという。
色欲が強ければきつい紫、物欲が強ければ濃い茶色。色のどぎつさは寿命の短さ。そんな花の中でも、むこうが透けるような純白に金が浮く姿が最も秀逸とされ、咲く期間も半年以上と長く、かつ、その実には仙桃に近い効能があるという。特に、仙人の力を数倍にさせるという逸話はかなり信憑性が高く、より上を目指す仙人・道士の憧れの的だった。
しかしながら、仙人界でも屈指の清池にしか生息しない為、間近に拝む機会は少ない。妲己がそれを目にしたのは、まさに偶然。それも敵地とすら思う崑崙山近くの浮島だった。

「すっごく、綺麗だったのん…」
「そして調べたら心花(しんほあ)だったと。」
「ええ、つい欲しくなってん。盗みにやらせたけど駄目でん、妾の周りに育てられる者もいなかったからん。」
「だから人間に育てさせてみようと?」
「そうよん。駄目もとでねん。駄目だったら処刑して遊ぼっかなー位に思ってたら、咲いたじゃない?びっくりしたわん。あの子、えーっとん…」
「廉紀という人間の庭師です。」
「そうそう、そんな名前の。そう言えば申公豹ん、あなたこの前、その子を乗っけて飛んだんですってん?
どういう風の吹きまわしん?」
「花を咲かせた事ですし、サービスしてやろうと思っただけですよ。」
「へぇ、サービスねん?」(そこから既にいつもと違うけど。まあ、基本きまぐれだしねん…)
「人間にしてあの花を咲かせるなんて、なかなかある事ではありません。少し、観察したくなりました。」
「ふうん。どうでもいいけどん、『実を結んだら』私の物よん?」
「まぁ、お好きなように。」
「…ていうかぁん」

 よっこらせと腰を上げ、自室に引き上げようとする彼を間延びした声で遮り、妲己は流し眼で首を傾げた。

「あなた宮中に住んでる事、あの子に教えてあげたらん?」
「何故です?」
「気に入ったなら、あの子あなたにあげるわよん?その方が『観察』の時間を長く取れるでしょん?」
「なるほど、それは良いアイデアです。」

 この道化に興味を抱かせる方が、珍花を咲かせるより余程難しいと思うけどねん。密かに微笑みながら暗がりへ去りゆく背中からは、「久々に楽しいおもちゃ見つけました」という気配が読みとれた。


 その2日後。彼は廉紀の前に、再び唐突に現れた。

「お久しぶりですね廉紀。今日は少し長く飛びましょう。」
「え、あ。お久しぶりです申公豹道士。というか今他の花の土づくり中でして…」
「そんなものは後になさい。」
「うわ」

 細く見える体のどこにそんな力があるのやら、申公豹に片手でむんずとつかまれた体は黒点虎の背に引っ張りあげられ、あっと言う間に空へ飛びだした。

「肥料あと少しだったのに…」
「空を飛ぶ機会を得る方が重要では?」
「それはそうですが、下手をしたら職務怠慢で殺されてしまいます。」
「妲己にですか。心配いりません、彼女には私から言っておきます。」
「お…、お知り合いで?」
「私は彼女の客として、宮中に住まっていますからね。」
「お客人ですか……。うん?という事は申公豹道士、広く考えれば私とご近所さんです?だって、同じ宮中に住んでいるんでしょう?そして、道士は妲己様派閥です?」
「私は中立の立場です。が、近所かと言われればそうなりますね。そして今日からは、あなたと同じ部屋です。」
「…………………………はい?」
「妲己に言ったらあなたを譲ってくれましてね。上司が代わったと考えれば分かり易いでしょうか。それか、同室の人間ができたとでも。ともかく今晩から私と寝起きし、花やらなんやらの世話に赴き、時間を見つけて飛びましょう。」
「あの、すみませんが申公豹道士。」
「はい。」
「その、話が全く見えないので失礼を承知でお訊きしますが…一体何のために私と部屋を一緒にするのですか?」

 申公豹はきょとん、とした表情をし、急に廉紀にぐいっと顔を近づけてきた。

「観察です。」
「か、かんさつ…、」
「そうです。私はあなたという人に興味が湧きました。黒点虎に千里眼を使わせるより、近い距離なら自分であなたを観察し、話し、分析してみたいと思うようになったのです。そこに、あなたの主義主張は存在しません。意義は一切認めません。宜しいですね。」
「で、でも道士、私は一応女なのですが。」
「私は男ですが、既に5000歳を過ぎた身です。今更女人に欲なぞ湧きませんので安心なさい。」
「という事は、昔はあったのですか?」
「そうですね、大分昔の、人間だった頃なら。」
「―そうですか、」

(なんでだろう。)

 安心すべき筈の所で、廉紀は自身の胸の痛みに、胸中で首を傾げた。申公豹は前を向いたまま、「空が青いですね」と頓珍漢な事を言っている。

「道士、」
「意義は認めないと言った筈ですが、」
「それはもう良いです。良く分かりませんが、分かりました。」(「え、了解しちゃうんだ?」by黒点虎)
「妙な回答ですが、まあ良いでしょう。では、どうしました?」
「今我々はどこに向かっているのですか?」
「無名の革命軍の所ですよ。」



 その人物は、空飛ぶカバのような生物に乗って飛行していた。速度は随分のんびりしている。そう思えるのは、黒点虎の速度が半端ないからだと気付くのに、時間はそうかからなかった。前回の遊覧飛行は何だったのだ。これでは怖くて目を開けていられない。風が目に刺さる。
 前回とは違い、申公豹の背中に貼りつくように騎乗(?)している廉紀は、風対策に、ぎゅうと目をつぶっていた。風圧が弱まった事で、ようやく静止体勢に入ったことを確信する。同時に、わたわたと話す声も聞こえてきた。

「もしやこのリスト、強い順に載っとるな!?では、一番弱っちい奴は誰か…」

びゅん「ぬおおおお!?」

「初めまして、私は申公豹。妲己の客として王宮に住む者です。」
「…申公豹、」

 風が渦巻く中を、申公豹はその男―太公望に対して名乗りを上げた。後の申公豹いはく、「ライバルの初邂逅」である。

 空飛ぶカバ、もとい、太公望の乗り物―四不象(スープーシャン)が叫んだ。

「申公豹様!あ、あなたともあろう方が、なぜ妲己に味方するっすか!?」
「ふにゃあああお!」
「うひぃぃ!」
「これこれ黒点虎、ガンを飛ばしてはいけません。」
「うにゃあ…」

 すかさず黒点虎が威嚇するも、申公豹にたしなめられて眉根を寄せた。このコンビ、妙な姿恰好をしているがなかなかの迫力である。全く考えた事はなかったが、あまりの怖さに廉紀まで後ろで固まってしまっていた。会話はその間も途切れる事無く続いていく。

「私は誰の味方でもありませんよ。ただ王宮は生活には絶好の場所なのでいるに過ぎません。」
「なぁんだ!では敵ではないのだな!さらば〜」
「ああ待ちなさい!私もそのリストに載っているのでしょう!?だったら倒すべきではないのですか!?」

(無視されたくないんだな…)

 太公望と四不象の心の声は、そのまま後ろで聞いていた廉紀の意見でもあった。しかしその後の展開は、全く予想だにしないものだった。恐らく、引き金を引いた太公望自身も。

「…申公豹、1つ言っておく。」
「(ほっ)な、なんですか?」
「服が悪趣味、センス最低、」

(く、空気が…っ!)

 急速に立ち込める暗雲、凍り付く空気、膨らんでいく圧倒的な威圧感。それがまさか、この飄々とした道士が発するものだとは、さすがの廉紀もにわかに信じられなかった。しかし全然静かでない量の静電気をまとう申公豹から、確かに同じ気配がするのだ。

「…太公望、もう許しません…。私は悪趣味だと言われるのが―死ぬほど嫌いなのです!」
「あぁ〜!こんなアホ同士と組むんじゃなかったぁ〜〜!」
「雷公鞭!」

 耳をつんざく轟音と走る無数の赤い稲妻。天空に円を描く不気味な黒雲、巨大化する凄まじい雷エネルギーの塊。一連の光景を、廉紀は半ば放心して見ていた。ちょっと待て自分。つい十数分前まで、後宮の裏庭で肥料かき回していた筈が…何がどうしてこうなった?

「か、かわすっすよ!」
「(はっ)いかんかわすな!」
「なんですと!?」
「目を閉じよ四不象!」

「っ嘘でしょう!?この雷撃をあの人たちへ向けてなんて!死んじゃいますよ!」
「今更ですよ廉紀。」

 エネルギーの塊は、あやまたず太公望と四不象へ向かっていった。閃光、再び轟音。嘘のように急速に晴れる空。天気も陽気も変わらないのに、美しい景観はひどくいびつなそれに変化してしまった。

「…すばらしい、これでも手加減したのですよ。」
「?申公豹、何か来る…」

びゅっ!

 突風の刃が申公豹の左頬をかすめ、いずなの要領で皮膚を切り裂き、血を招いた。切られた本人はより一層楽し気な風情で、黒点虎に相手の無事を問う。太公望が死んではいない事に安堵し、あまつさえライバルと位置付けてみせた。

「彼の後ろに姜族の村があるのは知っていました。それを守り、かつ、私に一矢報いる事も出来た。骨のある良
い道士ではありませんか。―殺すには惜しい逸材です。…と、おや、廉紀、どうしました?」
「廉紀ちゃん?」
「っひ、う…」
「―廉紀?」

 ほくほくした顔がいぶかしげになり、振り返るなりやや驚いたように目を見開いた。いまだ嘗てないほどの規模の雷を、これだけ間近で感じた事で、彼女の心臓に妙な負荷がかかったらしかった。廉紀の両手は申公豹の背の衣服をきつく握りしめ、指は血が通えないほど白くなっていた。呼吸が上手くいかないようで、全身に緊張があり、冷汗が伝い落ちる。瞳孔は開き、浅い苦痛に速すぎる息、やや昏睡に近い症状が出ていた。

「廉紀、落ち着いて呼吸を。黒点虎、近く下りられる場所を探して下さい。」
「分かった。」

 すぐさま2人と一頭は近くの原っぱに降り立ち、廉紀は半ば引き倒される形で地面に横たわった。だが、すぐに症状が緩まる気配はなく、どころか徐々に顔色が青紫に近くなっていく。死相が見え始めた。

「黒点虎、」
「ん?」
「―あくまでこれは治療ですからね。」
「んん?」

 言うなり、申公豹は廉紀の上にかがみこみ、ばくりと音がしそうな仕草で彼女の口を口で覆った。そこから新鮮な空気を一気に送り込む。数回続け、今度は上半身を抱き上げ、背をゆっくりとさすった。心音を確かめ、窮屈そうな首元のボタンを外し、襟を開く。彼女の乳房が見え隠れする位に開いてもやめず、あまつさえ左胸を大きな手のひらで覆い、熱を確かめ、上からやや圧迫するようにしてもんだ。これも数回。空気、マッサージ、空気…。ここに至るまで黒点虎はあんぐりと口を開けたまま、未だ微動だにしていない。申公豹はやや眉根を寄せたまま処置を続け、頬の血の気も呼吸も自然体に戻ったと分かると、さり気なく襟を合わせてやった。程なく、閉じられていた瞼が開かれる。

「しん、こうひょう、どうし…」
「意識が戻りましたね。」
「大丈夫?廉紀ちゃん。」
「あれ…、ここは…?」
「近くの原っぱです。―すみませんでしたね。」
「え、何が、ですか」
「あなたが人間なのを失念して、宝貝(ぱおぺえ)を使ってしまいました。何故でしょうね。毎回のあなたの反応
があまりに淡々としていたので、こんなに重篤な症状をもたらす程驚くとは想定していませんでした。」
「でも、助けて下さったんですよね。だから、大丈夫です。」
「…顔色がまだ良くないですね。一度王宮に帰りましょう。黒点虎、」
「にゃーん」

 こうして一行は、慌ただしく王城に戻った。

「あらん?」

 いつもの回廊で心花の香りを楽しんでいた妲己は、申公豹が黒点虎の上で廉紀を横抱きにしているのを見て首を傾げた。

「どうしたのん?お具合でもん?」
「ええ、少しばかりミスしましてね。妲己、彼女はもう私の部屋でいいですね?」
「もちろん良いけどぉん?申公豹ったら、大胆ねぇん。イタズラしちゃ駄目よん?」
「しませんよ。ところで、何か飲み物をくれませんか。侍女にでも運ばせて下さい。2人と一頭分。」
「分かったわーん。」

 すたすたと歩み去る黒点虎上の人物は、妲己を一度も見やることなく、腕の中の廉紀を見ていた。妲己はその姿に微笑みながら、「あらあらん?」と笑い、独りごちたのだった。

「これは妾が「例の物を貰う」の、けっこう難しくなりそうねん。」
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