殷の花

□花縁奇縁(はなえんきえん)
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中国古代王朝、「殷」。その第30代国王・紂王治世下の王都、朝歌。都の中心にそびえ立つ王城には今、不穏な気配が渦巻いていた。幻術により王をたぶらかす仙女―妲己(だっき)による政治の混乱の為である。残虐非道を極めた執政は民草の心身を疲弊させ、更に農作物の不作、疫病の蔓延等の悲劇が重なり、政権は早晩崩壊する運命にあった。

が、ともかく。

 そんなきな臭い状況でも、崩れるのはまだ少し先という時期。物語は、宮廷の片隅から始まる。後宮寄りの、やや裏庭めいた一角に、世にも珍しい花の世話を任されている1人の少女がいた。名を、王廉紀(おう れんき)という。彼女は若干20代にしてただ一人、その花の世話係に抜擢された。というのも、その花は彼女が直接、皇后・妲己に託された花だったからである。

 花弁の先がうっすらとした金に染まったその花は、驚くべき事におしべ・めしべまでが美しい金色をしており、風が吹けばちりちりと、繊細な金属のかけらを鳴らすような音を奏でた。また、一度開けば、半年以上も枯れずに咲き続ける。この不思議な花の名を知る者はいなかったが、一つ言える事は、その花が並みのものではない、という事だ。噂によれば妖狐と名高い皇后自ら希望する位の、そんじょそこらではお目にかかれないような、そんな花だ。

庭の牡丹の世話をしていたある日、彼女は初めて妲己を間近に見た。ぼーっとして水やりをしている間に、背後の回廊を通りかかった妲己が、きまぐれに声をかけてきたのだった。


「赤い牡丹を増やしてん。妾(わらわ)は、赤い方が好きなのん。特に、血のように濃い赤が。」
「こ、皇后陛下…!」

 反射的に地面にはいつくばった彼女を面白そうに見やり、妲己はなおも続けた。

「お花を育てるのは好きん?」
「は、それはまぁ。庭師ですから。」
「そう。じゃあ庭師ちゃん、これ、育てる事ができるかしらん?」

 もし、育てられたら―褒美をあげるん。彼女が取り出したのは、椿の実程の大きさをした、白く艶やかな玉だった。随所に金の波紋が踊る。廉紀は思わず、深く伏せた顔を上げてしまった。途端に、明度の高いアクアの双眸とかち合う。

(うわ、凄い綺麗だ。絶世の美女と聞いてはいたけど…これは凄い。ほんとに凄い。)

 本当にこんな綺麗な人が、噂に聞くような残虐非道なワガママをしているのだろうか?それともやはり、噂は噂にすぎないのか。だがどちらにせよ、人外の美しさに変わりはない。考えが丸ごと顔に出ていたらしく、皇后は「そんなに綺麗?うれしいわん?」と身をくねらせてみせた。そして、ぽかんとする廉紀の目の前に玉を放り投げる。思わず手に取った。

「これは…」
「わらわの古巣の近くに咲いていた花の種よん。そこでは割合咲いているのだけど、こちらでは全くないから、
咲いていたら嬉しいと思ってん。あなたが咲かせてくれたら、ちょこちょこ見にくるわん。」
「はあ…、」
「そうねん、ここに池を作るからん、上手く育ててねん?」

(水生なのか、)

 花の種には全く見えない代物だったが、ともかくそれを埋める土づくりから始めた。単なる気まぐれではあっても、実行に移さなければ命が危ない。本当に皇后が見にきた場合を想定し、廉紀は連日花の研究にあけくれた。また、これも驚いた事だったが、妲己は翌日には本当に、牡丹の咲いていた小さな庭を池に作り変えるという荒業をやってのけた。牡丹は切り花となったが、仕方がない。こうなれば本気で咲かせなければやばい。その焦りと真剣さが功を奏したのか、花は芽吹いて葉を伸ばし、1月ほどでみるみる丈高くなり、茎数を5本ほどに増やし。今に至るに成人男性のこぶしよりも少し大きい位の、ふんわりしたつぼみをつけた。
 
花は、つぼみの段階ですでに大変良い香りがした。先端がひどくきらびやかな金であるのを目にした時、その美しさに廉紀はため息をついた。派手好きの皇后には似つかない清廉な花だが、これも絢爛ではある。初めて花開いた姿を目にした時は、倍以上も感動した。日を浴びた姿は、まるで西洋の王族が使うという乳白の陶器のような、上品な風情。この世の物とも思えない。しかも、花弁は半ば透けているのだ。

「それは、仙人界の花なのですよ。」

 風に吹かれる花々が一斉にちりちり…と可憐な音で鳴くのを聞いていたら、急に上から声をかけられた。みれば、屋根の上に見た事のない人物と巨大な猫がいた。もうあまり驚く事もなくなったが、この宮中には妙な輩が多すぎる。この、変なとんがり帽をかぶり首に木の根をまきつけた、けったいなピエロ姿の人物も(+猫?も)、最近闊歩する「人間ではない」何かなのだろう。気配が違う。

「あなたは、仙人ですか?妖怪ですか?」
「道士です。あなたは人でないものを怖がりませんね。」
「最近宮中はそんな感じの人たちで溢れていますから。理由は存じませんけど。」
「この花は、どこから?」
「皇后様が直々に、こちらにお持ちになりました。咲かせてみせよと。」
「…私はこれが仙人界の花だと言いました。」
「はい。」
「それが意味する所が分かりますか。」
「…皇后様が仙人だという事ですか。」
「そうです。気付いていましたか?」
「年経た狐がおつきだと噂を聞いた事はありましたが、全く。ああ、無論単なる噂と思っていましたけど、」
「ふふ、私相手に取りつくろいは無用です。私から妲己に告げ口する必要性はありませんから。」


 奇妙な道士は巨大猫に乗った状態で、すうと地上へと降りたった。凄いなこの猫。空を飛ぶのか。いいなぁ。
また考えが顔に出ていたらしい。道士は小首をかしげ、唐突に「乗りますか?」と提案してきた。何だろうこの道士。表情がない分考えが読めず、それでどこか怖い印象を受けるが、物腰は柔らかくユニークだ。自然と会話に乗せられている自分がいて、しかもそれを心地よく思う。考えがまとまる前に頷いていた。

 彼の乗り物たる猫は一瞬びっくりした顔をして、腑に落ちないとでもいうように眉根を寄せた。こうしてみると感情表現の豊かな獣だ。そんな風ではあったが、彼―後に黒点虎(こくてんこ)と名乗った。猫ではなく虎で、「最強の霊獣」の称号を持つのだそうだ―は大人しく廉紀を乗せ、下に降りて乗り上げるのに手を貸した主人を見やった。道士は黒点虎に頷いてから、廉紀のすぐ後ろにまたがった。

「では、人間のお嬢さん。落ちないように注意して下さいね。―飛びますよ。」
「は」

 はいと言い終わる前に股の下で黒点虎の筋肉が膨れ上がり、気付けば頬をなぶる風も冷ややかな天空にいた。生まれて初めて、廉紀は己の下に国土を見た。

「わぁ…」
「あれが城です。こうして見ると、都は小さく見えるでしょう?あれが関所で、あれが…」

 顔の割に親切な道士は、1つ感嘆の吐息をもらした後、目を更にしてただ眼下を見つめる廉紀へ解説を始めた。だが説明はすぐに途切れ、2人と1頭の間を沈黙が満たす。気付けば廉紀の腹に道士の腕が回されていた。驚いて振り返れば、相手は半眼でこちらを見ていた。

「え、」
「あまりに熱心なので。…黒点虎につかまる所はないのですよ。あなたときたら、夢中になってずり落ちそう
でした。」
「あ、ありがとうございます…。」

 何の事はない。落下防止を図ってくれていただけだった。妙に騒ぐ心音をいぶかしく思いつつ、廉紀は下ろしてくれるよう頼んだ。ほんの一瞬。まばたき程の間の内に大風が下から吹き上げ(要するに彼女たちが勢いよく下降した)、目を開いた時には既に、彼女は後宮の庭にいた。すぐ目の前、頭半分高い位置に道士の顔がある。

「気分が悪くはないですか?」
「あ、はい。全く。」
「そうですか。なら良かった。」

 表面上は全く良かった顔をしていないが、道士は2度ほど頷いて霊獣に乗った。そのまま宙に浮き上がりつつ問いかけてくる。

「名前を伺ってなかったですね。」
「れ、廉紀です。王 廉紀。」
「どのような字を?」
「王様の王、清廉潔白の廉、紀行文の紀です。」
「―明白です。あなたは頭の回転が速いのですね。」

 道士が目を細める。黒点虎の高度が上がっていく。いつの間にか暮れかけの空にまばゆい斜陽が差し、道士の顔半分を影にした。まぶしいのをこらえ、こちらも問いかけてみた。

「道士様のお名前を伺ってはいけませんか?」
「おや、知らなかったですか?申公豹と言います。あなた流に言えば、申請書の申、公(おおやけ)の公、猫科の
大型動物の豹です。」
「(普通知ってる位の人なのか?) 申公豹様、今日はどうもありがとうございました。生れてはじめて空を飛びました。私、一生忘れません。」
「…そうですか。」

 彼は既に屋根より高い位置にいる。目の前で奇異な現象を見せつけられると、なんて遠い世界の住人なのだろうと、何故か寂しく感じてしまう。だが、彼は飛び去りながらこう言ったのだ。

「機会を見つけて、また乗せてあげます。あなたはいつも空を見ていますからね。空、好きなんでしょう?」
「え?」

 いつも、とは一体。その質問をする前に相手は見えなくなったので、とりあえず次の機会を待つ事とした。
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