夏祭り奇譚

□夢幻回廊と風車売り
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 私の地元は片田舎だが、夏の稲荷神社の縁日には、それなりに客が集まってくる。近隣の一大イベントであり、露店も多い。社へ続く長い階段を、赤い灯明を数えつつ上り、境内を埋め尽くす店をひやかし、最後に行きつくのがその店だった。

 店の背後は鎮守の森。高台という事もあり、絶えず涼しげな風が吹く。店の主は、あるいはその風を目あてに店を構えていたのかもしれない。というのも、商品は風車だったからだ。 

 一度風が吹けば、それらは「カラカラ」と軽快な音を立て、一斉に動き始める。落ち着いた朱色、目が覚めるような青、明るい緑に、清楚な白、淡い桃色。とりどりの色が渦をまく様は、見る者を圧倒する。特に欲しいと思う事はなかったが、無数の風車が回る様子をただ見たいが為に、必ずそこへ立ち寄った。店主は年若い男で、決まって濃紺の和服をまとい、凝ったきつね面を付けていた。故に私は、彼に「狐さん」というあだ名を付けた。だが、直に話したのは、後にも先にも一度きり。あの、真夏の晩だけだ。

「お嬢さん、そんなに見ていて飽きないか。」

 狐さんが話しかけた相手が自分だと気付くのに、数瞬かかった。私は更にまばたき1つの間をあけ、「飽きないよ」と返す。これが、我々の記念すべき初会話である。狐さんは私が、何度もその場所に来た事を覚えていた。

「何も買わず、じっと風車を見ているお客は珍しくてね。風車が好き?」
「ううん、この雰囲気が好きなだけ。」
「ふうん。…これは勘違いかもしれないが、君はいつも風車というより、風車(・・)の(・)奥(・)の(・)空間(・・)を見ているよね。」

そう問いかける彼の、仮面の奥の表情がどんなものだったのか、正確には分からない。だが、その瞬間私たちは、互いがこの世で最も近しい存在だった。

「君、やっぱり見えるんだね。」

そう。私には見えている。屋台の後ろ、鎮守の森の奥へと続く、暗い鳥居の無限回廊が。そして恐らく狐さんにも、同じ景色が見えているのだ。仮面の向こうで、彼は明らかに口元を歪めた。それは、酷く禍々しい笑みに違いなかった。

「もし君が望むなら、」

彼が私に手を差し出す。真白く、骨ばった大きな手だ。入れ墨なのか、薄紫色の紋様が踊る。誘われるように己の小さな手を重ねると、ひんやりとしたそれに握りしめられた。

「…あそこに行けるの?」
「―見えているという時点で、君はすでに切符を手にしているんだ。」
「あなたは、あの奥に行った事が?」


面の奥で瞳が赤く光る。彼は何も答えず、私の手を引いてゆっくりと歩き出した。

夢の中にでもいるような心地がする。森の中に踏み出した時、周囲の空気が変わった。まるで水中へ舞台がうつったかのように。進む先には、鳥居、また鳥居。ああ、1人ではあんなに恐ろしく感じた鳥居の回廊も、連れがいるならそれほどでもない。何気なく見あげた空に魚がいた。あ、と思う間もなく群れて泳ぐ。緋色に漆黒、鈍い銀に、明るい黄金―見事な錦鯉の乱舞だ。それらが去った後には、大小さまざまなだるまが行進して通り過ぎ、闇に呑まれた。たくさんの吹き流しが翻る。夕暮れの空が見え、風鈴がすずなりに下げられた鳥居もくぐった。鬼の置物にほおずきの実を投げられて驚く。

 不思議な時間だった。もう幾千の鳥居をくぐり抜けたろう。気付けば私は、薄暗いどこかの座敷にいた。畳は新しく、清々しいイグサの香りがする。狐さんは何も言わず、金襴の施されたふすまを開けていった。

ある部屋には青々と竹林が広がり、ある部屋には彼岸花が群生していた。巨大な竜の棲む池の上を渡り、炎が踊る釜の脇を歩き、曼荼羅万寿の華吹雪を抜け。

いつの間に外に出たのか。ついに彼が止まったその場所には、古びた祠と社があった。空には硬貨のような月が浮び、柔らかい光を注いでいる。信じられないほど大きな銀杏の樹があり、夜風に枝を騒がせた。

「ここは***の社。」

低く響く彼の声が聞える。私は先ほどから、社の中のある気配に神経を集中させていた。それは私に、様々な感情を湧きあがらせる。懐かしい。愛おしい。切ない。―怖い。今すぐ背を向けて走り去りたい気持と、近寄って抱き締めたい衝動が、ちろりちろりと身を焦がす。

そうだ。私はいつか、この場所に来た。記憶が急速に体の奥底からあふれ出し、涙となって大地にしみ込む。彼はそんな私の背中を押し、本殿へと向かう。

「例え誰が何と言っても、君は“あの方”の傍にいるべきだ。」

あの方とは、一体誰の事だろう。思い出せそうでできない私は、疑問を投げかける余裕もなく泣きつづけた。時折、本殿の中で紅い光がゆらりと踊る。まるで、私の涙に焦ってでもいるかのように。

 本殿の扉が、重い音を響かせて開いた時。狐さんは私のみを中に入れ、自分は外へ下がった。2人の間を月の光が分かつ。私は振り返り、お面の奥の赤い瞳を見詰めた。一瞬、さびしげに揺らいだその色を、私は一生忘れない。

―神隠しにいざなわれた子供は。

いつだったか、友人である少年の祖母に聞いた話を思い出す。この地方にまつわる昔話。何十年かに一度、異界に嫁ぐ人間を迎える相手は。


「お帰りなさいませ、奥方様。」

扉が閉まる。“あの時”は逃がしてくれたこの人も、きっともう2度と逃がしはしない。ほの暗い夏祭りの記憶が、この人を前にして完全な姿を取り戻す。ああ、愛しくて恐ろしい、あの夏のままの。

―例え一度戻っても、必ずまた異界へと去っていくのさ。

 黒い狐面の男は、闇の中からゆっくりと、ためらいがちに手を伸ばした。私はもはや抗う事なく、その手を取った。全身に広がる甘い陶酔、痺れるようなその感触をようやく思い出す。

「―ずっと、私を呼んでいたのね。」

 深い夜色の衣が優しくこの身を抱く。退路は完全に断たれた。いつの間にか、外では祝いの宴が繰り広げられている。廻る風車の音が聞こえる。灯影がうつすのは、人ならぬ存在たち。

 この日私は、現世の全てを失う代わり、異界の全てを手に入れた。
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