殷の花

□種になりました
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 申公豹に振られた足で廉紀が向かったのは、城内で最も良く訪れる場所―花壇に近い種苗小屋だった。今だけは場所がどこであっても、落ち着いて一人になりたかった。一人で思いがけなく吐露して散った、恋心をなぐさめたかったのだ。しかし、きしんだ音を立てて開けた扉の向こうには、思いがけない人物がいた。

「…皇后陛下…」
「廉紀、あなたをずうっと待っていたのん。」
「待たれていた…?いつから、このような、薄暗く汚れた場所で…?!そもそもなぜこちらに、」
「あなたなら、彼に振られた時はここに来る、と分かっていたわん。ここはあなたが二度目の生を受けた蓮池の、
 蓮の種も保管する場所。城内の池の蓮はあそこから取っているもの。あなたなら、ダメージを受けたらここに来るわよねん。」
「?なんの、お話ですか…?」
「…そうねん、知らないならその方が良いでしょん。」
「え…、というか何故道士との事を知って?」
「まあまあ。細かい事は置いといてん?ここは王城、妾と紂王様の愛の巣ですものん?何でもお見通しなのん。それよりも廉紀、…辛かったわねん。本当は一人になりたかったのでしょん?わかっているの、だから妾は、あなたの望みを叶えに来たわん。」
「私の、望み…?」
「ええ。一人になりたい、今は誰ともいたくない。この恋の炎熱が冷めるまで、どうかそっとしておいて欲しい…」
「―」
「違わないでしょん?だから、叶えてあげる。あなたが彼を忘れられるその日まで、ゆっくりとお眠りなさい。」

 額に、妲己の冷たくて長い指先が触れた。温かな水が流れ込む感覚がして、一気に眼前の妲己の輪郭がぼやける。急にどうして、と疑問に思う間もなく堕ちてゆく。深い、抗いがたく心地よい、眠りの中へ。心のどこかで警鐘が鳴る。恐らくこれは、皇后の罠。しかし今は、別にそれでも良いと思った。

―さようなら、申公豹道士。

 妲己の足元に小さな白磁の球が転がった。所々金の波紋が浮かぶその球は、随所が濃淡のある青色に染まり、どこか憂いのある美しさだった。妲己は指先でつまんでそれを目線の高さにまで上げた。どこか神聖な瞬間の後、ふ、と邪悪な笑みを浮かべる。

「青もいいけど、やっぱり紅が良いのよね。それも、血のように鮮やかな赤が…」

まあ、これもコレクションとしては悪くないわん。手にした球に軽く口づけ、「意外と何とかなったわねん」と独り言ちた彼女を、回廊の屋根から黒点虎が眺めていた。



「―と、まあこれが数週間前の話。」
「―そういう事ですか。彼女は廉紀に心花を育てさせると共に同調させて、同じく花としての本性を引きずり出そうとした。そして、いずれは殺して彼女自身の核を取り出し、種として植えるか薬に使うつもりで、」
「そうみたいだね。咲くかわからない心花よりも、確実に手に入る蓮の精の核の方が手軽だもの。きれいだし。」
「それで、彼女は今どこに?」
「多分だけど、妲己ちゃんの部屋の宝石箱の中。るんるんで持って行った場所と言えば、大体そこだと思う。」
「ふうむ」
「何、申公豹。おっかない顔して。珍しいね。」
「―黒点虎、廉紀の種を貰いに行きましょう。」
「どうして?」
「あれは私の部下ですよ。」
「彼女自身の意思で離れたじゃない。しかも、種になるきっかけは君だし。しょうがないけどさ。」
「きっかけは私かも知れませんが、現段階で彼女の上司もまた、まだ私の筈。部下を勝手に持っていかれては困ります。」
「数週間放置したくせに、」
「お黙りなさい。」
「そもそも取り返してどうするのさ。君が原因だもの、君を忘れないと戻らないんでしょ?何、植えたいの?」
「私が彼女に、言いたいことがあったのですよ。…植えませんよ。(趙光明でもあるまいし)」
「フーン?」
「では黒点虎。今夜に。」
「ああ、夜会の最中だね。任せて。」

 1人と一頭(一匹?)は、珍しく別行動を開始した。申公豹は部屋で何やら調べ物を、黒点虎は都のはずれの蓮池まで、一瓶の水を確保しに。大々的な夜宴が宮中で開かれる夜を目前に、妲己はこの時、宴の衣装に迷っていたのだが、監察からすでに「客人に不信の動きアリ」との報告を受けていた。



「あーん。決めたのは良いけど、やっぱりさっきの官能ピンクにしたらよかったかしら〜ん」
「今の官能ヴァイオレットもお似合いよ姉様。」
「似合ってりっ☆」
「わかってるのよ〜妾が何でも似合うって事はぁ〜ん!紂王様はどっちがお好き?」
「よ、よりセクシーな方で…」
「んも〜う、えっちねぇん💛」

(毎度聞きますが、いい茶番です。)

 にぎやかな会場の片隅で、中心の王夫妻と妲己の義妹たちをジト目で眺めながら、申公豹は相棒からの合図を待っていた。現在黒点虎は妲己の部屋に潜入中で、廉紀の核を入手したら屋根の上からしっぽをぶら下げて合図する。それをしおに申公豹は退出し、部屋で調合した聖水に彼女を浸すのだ。上手くいけば小一時間で彼女を戻すことが出来るが、問題はそこからである。申公豹にとって、珍しくせわしない感じのする夜だ。

「やっぱり、お色直ししてくるわ〜ん」
「えっ!行くのか妲己!余を置いていかないでくれ〜」
「―(ばからしい)」

 皇后に追いすがる王を更に温度の下がった眼差しで見つめていた申公豹だが、次に妲己が現れた時には呆れてもいられなくなった。前言と違って薄青い衣装で現れた彼女は、その胸元に薄青い陶器の肌を持った、金の波紋が浮く球を付けていた。言わずと知れた、彼女の核を。

「…申公豹、」
「ええ、分かっています黒点虎。すみませんね、ご苦労でした。」
「どうする?まさかこんな使い方をするなんてね。」
「あれは縫い付けられているのでしょうかね。だとすれば彼女の生存は絶望的ですか?」
「わからない。当たり所が悪ければ、花としてはアウトだけど、人としてもちょっと…」
「何をこそこそ話しているのん?」
「…ご本人の登場ですか。」

 優雅に近づいて来た妲己と向き直った。少し手を伸ばせば届く位置に、彼女の核がある。見事に種。云とも寸とも言わない。その事を何故か、もどかしく思う。

「なあに?何の話?」
「あなたの胸元の球が美しいですね、という話です。」
「…ああ、やっぱりお目当てはこれなのねん?」
「妲己、彼女を譲っては下さいませんか。」
「なあに?振ったくせにどうするつもりなのん?」
「…彼女と話したいのですよ。」
「どんな事を?」
「それは彼女に直接言います。」
「出てこないんじゃないかしらん?だって、あなたを忘れるまでという“契約”で術をかけたのだものん。こんなに立派にかかっている以上、彼女自身の“そうなりたい”願いが強かったとみるべきねん。」
「そうですか。では、引きずり出してでも話します。」
「…力だけでは女の心は射止められないわよん。」
「話したいだけですが、」
「彼女は話したくないかもしれない」
「それも会わねば分からない事です。」
「じゃあ、あなたが彼女を元に戻す事が出来たら、考えるけどん。」

 自然な仕草で胸元の球を差し出す。無表情の中にも挑戦的な目つきで受け取った申公豹は、黒点虎を促してそのまま夜空へと飛び立った。

「廉紀ちゃんはどう?」
「ほのかに温かい、ですね。ぬくもりがあります。穴も開けられていた訳ではないらしい。」
「じゃあ、多分まだ本格的な種子状態ではないね。」
「そのようですね。…廉紀」


 静かに呼びかけるも、やはり何も返らない。申公豹は眉根を寄せてしばらく考えた後、廉紀の故郷である蓮池の上に黒点虎を静止させた。

「ほら、あなたの故郷です。あなたが知らなくとも、あなたの魂魄が知っている。」

ざわり、と表面の金紋が揺れる。やはりそうだ。命の源に近しい場所は、本能が覚醒する。

「私はあなたが人間だと思ったから、突き放したのです。別にあなたの性格がどうとか、好みがどうとかではなくて…、ああ。いや。言いわけに聞こえるでしょうが、そうでなければ、寿命の違いがあなたも私も傷つける事になります。結局は、断る段階で傷つける事になりますが。しかし、それでも。そうと決めていてすら私は、……珍しい事にやや動揺していたようです。あなたの涙に。」

 居なくなられて初めて気づきました。5000年生きて初めてですよ。呆れたようにつぶやきながら、申公豹は器用に親指で球の表面をなでた。じっと様子を伺っていた黒点虎が驚くほどに、慈愛に満ちた手つきだった。その感触は、深い眠りの底にいる廉紀の上に確かに降り注ぐ。まどろみが、少し薄れた。

廉紀、私はこう見えて、結構あなたを気に入っています。現金なようですが、人ではないと覚醒したあなたとならば、心安くそばにいる事が出来る。そんな気がします。あなたの感情と私の感情は、今は全く同じではないかも知れません。が、少なくとも私はまだ、あなたを観察し足りない。だから戻って来ませんか。私の元に。

(申公豹、道士?)

 まさか、自分を突き放したあの人が、自分に戻ってこいなどと都合の良い事を言うはずがない。仮に言っても、決して期待していい類いの発言ではない。そう頭で理解していても、幽かな、穏やかな声音(かつて一度も耳にした事のない類いの優しさを持った)で囁かれては、いくら夢でも眠ってはいられない。甘美で残酷な夢。
皇后はひどいな。折角忘れようと眠りについたのに、やはりただ優しくしてくれる人ではないか…。つい苦笑が漏れる。皇后らしいと言えばらしい。

(でも、良いかも。少しくらいなら、眠っているのだし夢を見たって。)

 段々と意識が、声のする方向―薄明かりの漏れる上層部へ向けてのび上がっていく。身体の周りを取り巻いていた呪縛という薄布が、上るにつれ一枚ずつ溶けていく。水面を突き抜けたような感覚に目を開ければ、金剛石をちりばめた夜空を背景に、驚くほど大きな月が浮かび、その光に溶け込む白金の髪が風になびく様を見た。仮面のような無表情が今この時は、少しだけ憂いを帯びて覗き込んでいる。ああ、やはりまだ、忘れられそうもない。無意識に手を伸ばしてその白磁の頬に触れる。猫のような隈取を施した瞳が、やや見開かれる。少しの後に酷くほっとしたように微笑むものだから、自分が何をしているかも分らぬまま距離を0に縮めてしまった。

「―いい夢」

 見た目にもれなく冷たい唇だったと口元を緩めたら、もう意識を保ち続ける事はできず。

「…廉紀?」
「寝たの?」
「…そのようですね。」
「良かったね、まさか本当に戻るとは思わなかった。てか、聖水調合する必要なかったね。」

 申公豹、王子様のキスでもしたの?からかう口調の黒点虎に対し、彼は仏頂面でため息をついた。

「…無理やり覚醒を促されたのは、私の方なのですがね…」
「?申公豹、何か顔、赤くない?」
「気のせいですよ。」
「え、嘘だ。絶対さっきより赤い。」
「いいから戻りますよ。風邪をひかせては事でしょう。」

 絡んでくる愛獣をいなしながら、2人と一頭はゆっくりと宮中へ戻っていった。
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