金色の鳥と白いムカデ

□狂焉
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出口の見えない闇の中を歩いているようだった。「あの日」―彼女が何の前触れもなく姿を消した日から、カネキの中で何かが崩れ始めた。自虐的な程に体を酷使して任務に臨み、かつてない程の数をほふった。同種喰いの数が増え、その分一人になると、狂気が身を蝕んだ。暴力的な衝動が全身を支配し、在りもしない声が聞こえる。自分ではない何かが自分の中に巣くっている事を実感するその瞬間の恐怖は、余人には到底理解できないものだ。

「あぁああああぁあぁぁあぁぁ!」

増えすぎた赫包が暴走する。鱗赫、甲赫の腕が無差別に室内を破壊して回るのも気にしていられない程、体の奥底が熱い。心臓が鷲掴まれたようになり、胃に焼けつく痛みを感じる。寧ろ内側から切り裂かれているのではと思うほどの激痛に、叫び声が抑えられない。脳幹が揺れ、めまいと共に襲う吐気と耳鳴りの向こうに、様々な声が聞こえた。リゼの忍び笑い、ジェイソンの雄叫び、耳管の中をムカデが這う音、その鳴き声。いつの物か、誰の声かも分からないままに流れて行く。
―喰種が人間社会に溶け込む為には、一生外せない仮面が必要だと言ったのは、誰だったろうか。
―ねぇ、お兄ちゃん。これは何て読むの?
彼女に教えたあの文字は、何と読むのだったか。
―リゼは誰かに殺されたという話。
あれはどこで、誰が言った台詞だった?記憶が指の間からこぼれ落ちて行く。ここはどこで自分は誰で何という存在で何を得て失って何を目的として生きてこれからどこへ行こうとして…。分からないわからない分からないわからない分からないわからない分からないわからない分からない―思考回路が無限ループを作りだし、迷宮から抜け出せない。一つ確かな事は、体の中心を抉り貫かれたかのような巨大な喪失感だけ。耐えきれず胸をかきむしり、戦闘服が破れ血が噴き出すまで止められなかった。それでも消えない。段々と、自分が失った大切なものまで本当に分からなくなりそうで、それが酷く、恐ろしかった。

(ササラ…)

いつの間にか自身の中に深く根付いていたその名すら、完全に忘れてしまうものだろうか。その時は恐らく、比喩でも何でもなく、自分のアイデンティティが崩壊するのだろうと思う。痛みを伴って苦しくてはり裂けそうでも、まだ今の方がいい。彼女の存在をこの身がはっきりと認識している今なら。まだ、生きていると感じる事が出来る。何より、彼女が居なくなった事にはきっと訳がある。それを突き止め、再びまみえるまでは、死んでも死にきれない。そう強く思う。

「人をこんな状態にしておいて、どこで何をやっているんだよ…」

絶対見つけ出してやる。荒い息を吐きながら、カネキは強くそう決意した。しかし、流れは彼女の捜索に割く時間を与えてくれなかった。CCGによる梟討伐戦―20区、喫茶あんていく襲撃の情報をつかんだのは、その矢先の事だった。


「あなたが悪いんだよコノハ。私の傍を離れようとした挙句、彼も連れて行こうとした。大事な戦力で、仲間で、家族で、駒で、可愛い私のペット達。離れるなんて許さないから。とりあえず、ずっとここにいてね?」

ほの暗く、機械音が静かに渦を巻く空間の奥。溶液の満たされた巨大な水槽の中でたゆたう少女は、意識なく口から呼吸の泡を吐き出し続けている。周囲を埋めるのはおぞましいもの達で、その中で彼女の白い裸体は神秘的なまでに美しかった。ガラスに片手をついて少女を見上げながら、エトは小さく、少しだけ寂しげに、溜息をついた。

「―お父さん」

回収しなければならない。彼もまた大事な素材。積年の恨みも込めて、『大事に大事に』使ってあげる。歪みに歪んだ狂気の宴が招くものは、終焉か、あるいは―。物語の歯車は、突然のピリオドに向け、大きく動いて行く。



―何も出来ないのは、もう嫌なんだ。
走り出しながら、走馬灯のように浮かんでは消える記憶のかけらを眺めていた。
どんなに力を得ても、技を磨いても、いつも心のどこかで思っていた事。力を支配するつもりが実は支配されていて、切り捨てた筈の感情がとぐろを巻いて。色々なものが剥がれ落ちて、最後に残ったものは、一塊の「寂しさ」だった。ずっと押し込め、殺し続けた本心。今更出てこられても、もうどうしていいか分からないのに。傷付いて抉れた心は醜いひきつれもそのままに、とうとうここまで来てしまった。ほんの一瞬、傷口に癒しをくれた少女も今は居ない。どこに行ったのか、何故消えたのかも分からないまま、新たな棘として突き刺さり、血を滴らせるだけ。それでも必ず、彼女であれば必ず戻る。そんな夢幻のような期待が抜けないから、いつまでも切り替えられないのかもしれないが。それだけが、今の自分を支える縁(よすが)だから。
順調に障壁を切り崩し、どこか親近感を覚える敵方の青年と相まみえ、体に深手を負い。意識が別の人格に蝕まれる中、何故か聞く筈のない親友の声に導かれ。気付けば真白い死神によって、黄泉送りにされてしまっていた。そこから先の記憶はない。さらさらと、砂が指からこぼれ落ちるように、白紙に戻る脳内が、強く。君の姿と名を追い求めた事は、確かだったと思う。無意識に、口が言葉を紡いでいた。

(…君が、好きだ。)

視力が奪われ、視界は暗黒の闇だった筈だ。それなのに、一瞬ひどく懐かしい黄金の光りを見た気がした。

彼が彼女と再会するのは、新たな人格を得て、皮肉な運命を辿る道すがらの事。もう少しだけ、先の事となる。

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