短編

□彼の幸せ
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あの日。

暖かく迎えてくれるはずの彼の娘は。

大切な娘は。

帰らぬ姿で転がっていた。

いつから転がされたのか。

一目惚れなのだと大切にしていたパジャマの上着だけを身につけた状態で。

血にまみれて。

潰されて。

刻まれて。

救いを伸ばすように、妻の遺影を掴んで。

どれほど苦しんだ?どれほどもがいた?

激痛に苛まれながら。

事切れる瞬間は何を思った?

今年の誕生日には子犬を飼おうと約束したのに。

いつか好きな人と結婚する時は、彼と妻の思い出のチャペルを使うのだと言っていたのに。

ひと月後の妻の母の誕生日には美味しい手料理を披露するのだと自慢げだったのに。

沢山約束したのに。

まだ叶えられていない約束の方が多いのに。

なのに。

なぜ殺されなければならなかった。

なぜ娘が死ななければならなかった。

なぜ犯人が生きている。

なぜ。なぜ?

わからなくなって。

ただ、約束と思い出だけが残されて。

気付いたら。

気付いたら?

血にまみれて、立ち尽くして。

厳重な法廷で。

罪人に相応の罰を告げる場所で。

相応の?

ふざけるな。

相応なものか。

娘の命を奪っておいて。

彼の唯一の生きる糧を奪っておいて。

生き長らえる罰が、苦痛を味わわない罰が相応なものか。

怒りと憎しみは同量存在して。

斬りにくくなっていた包丁の刃を研いで。

それから。

それから−−

生きる理由を失ったから、今ここにいるのだ。

魂だけの存在になって。

罪を犯したから地獄に落とされて。

娘の魂が妻の元に向かうことは本能的に気付いたのに。

どうして。

どうして、天に向かわず彼の手を離さないのだ。

ここは苦しくて。

君がいるべき場所じゃなくて。

君が天国に行けるくらい優しい娘に育ってくれた。それだけでもう充分だったはずなのに。

罪人とはいえ他者の生を奪った彼は天国には行けなくて。

それでも、天国には妻がいてくれるのだから。

二度と家族三人揃わなくても。

なのに。

「…頼む」

何度目になるのだろうか。

呟いて、願って。

この手を離して。

天国が君を呼んでいるのだから。

苦しみなんて存在しないから。

寂しい思いをさせたね。

つらい思いをさせたね。

痛かったよね。

家に帰るのが遅れてごめん。

守ってやれなくてごめん。

沢山の約束がまだ残っていたのに。

ごめん。

ごめんね。

「……」

娘の名前を口にしたはずなのに、音にはならなくて。

泣きじゃくる姿に胸が軋む。

抱きしめて安心させてやるのが父親の役目だろうに。

彼にはもう許されないのだ。

どう足掻いても。

彼は罪人になったのだ。

娘とはいられない。

こんな死後の世界があるなど誰も教えてはくれなかった。教えてくれたなら、別の道を選べたのに。

「…離すんだ」

暖かな温もりの灯る手を。

離して、天に。

妻がいる場所に。

君の母がいる場所に。

さあ。

「−−行くんだ」

涙に両目をふさいだ娘の隙をついて。

激痛に苛まれながら。

−−お父さん!!−−

ようやく離れた手に。

この地獄に落とされてから初めて、娘の声を聞いた。

天の力が娘を空へとのぼらせていく。

いくつもの涙がこぼれて。娘と共に空に向かう。

あぁ。

ようやく。

ようやく娘は天国に向かうのだ。

苦しみなど存在しない場所で。

妻もいる場所で。

守ってやれなくてごめん。

こんな父親でごめん。

最後までそばにいられなくてごめん。

天国に向かう娘は優しい光に包まれるが、苦痛ばかりの地獄に身を置く彼には見上げ続ける力が存在しなくて。

でも。

きっと天国は幸せな場所だから。

笑っていて。

痛みも悲しみも苦しみも忘れて。

天国で幸せでいてくれたら。

この地獄を耐えられるから。

こんな父親でごめん。

手を繋いでくれて、ありがとう。

とても暖かかったよ。

だから。

ごめんね。

さようなら−−

 
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