短編

□彼の幸せ
1ページ/2ページ


地獄の重力は異常なほど強くて、罪を犯した魂なら一瞬でねじ伏せられてしまう。

ねじ伏せられ、磨り潰され、しかしそれでも苦しみからは解放されない。

地獄なのだから解放などされるものか。

ここは魂の終着点なのだ。

生前の行い相応の終着点に。

苦しみながら、救いを求めて手を伸ばす。

その手を掴む者などいないというのに。

いないのだ。

救いなどあるはずがない。

救われるはずがない。

救われるなら、最初から地獄など存在するものか。

だというのに。

「…頼む」

自分の声がかすれて笑える。

笑えるはずなのに笑えないのは、相応の罰を受けて全身に酷い苦痛が降り注いでいるからだ。

伸ばした腕が引きちぎられる感覚。

筋肉の筋にそって刀で裂かれる感覚。

伸ばした腕を降ろせば苦痛は幾分か和らぐのではないだろうか。

そうは思っても。

腕を降ろせない理由があるのだ。

「…頼む」

まるで呪文のようにもう一度。

ちがう。

もう一度なんかじゃない。

何度も何度も。

ちぎれてしまいそうな腕を懸命に伸ばし続けて、その先の温もりに。

足掻くように温もりに懇願する。

大切な彼女を。

彼女の手のひらを。

「…頼む」

身体を動かせばそこから激痛が全身にまわる。だとしても、彼は懸命に頭を上げた。

腕の先にいるはずの温もりを確認する為に。

まだ傍にいるはずの彼女を確認する為に。

わずかに動くだけで死ぬほどの激痛が走るのに、すでに死んでいるというだけで痛みは治まらない。

それでも懸命に温もりに目を向けて。

まぶたを開くだけで目玉に五寸釘を打たれるような激痛。

耐えろ。開けろ。痛みなど。

彼女の受けた苦しみに比べれば。

「−−ぁ」

懸命に、健気に。

見上げた先で視線が重なる。

暖かな温もりのさらにその先。

ふわりと浮かぶ愛しい彼女。

地獄にいるべきではない無垢な魂。

重なる視線に、彼女の涙腺が緩んだ。

緩み、苦痛など受けていないはずなのに表情が歪み。

愛しい唇が動いて、何かを告げる。

聞こえはしない。何と言っているのか、もはやわからない。

ここは地獄で、悪行を働いた魂の終着点で。

だから彼女はここにいるべきではないのだ。

彼と同じく魂だけの存在となった彼女が向かう先は苦痛の存在しない天国のはずで。

それをわかっているはずなのに、繋がる手は。

暖かな温もりは。

善良な力が彼女を地獄から救い出そうと魂を浮き上がらせるから、苦痛に満ちた世界でこの場所だけが異様なほど淡く輝いて見えた。

この手を離したくない。

絶対に離したくない。

「…頼む」

温もりを。彼女を。

でも。

「…離すんだ」

掠れる声で懸命に告げて、激痛の中で何とか腕を離そうとしても。

彼女の頬を伝った涙がこぼれて、地に落ちる前に浮かんで空にのぼる。

涙の一滴すら、天国に向かうべきなのだと。

頼むから、離してくれ。

彼女は。君は。あなたは。

「…お前は…ここにいるべきじゃない」

言い聞かせるように。

優しく諭すように。

まだ幼い彼女に。

愛しくて、大切な。

「…離すんだ」

唯一の娘に。

娘がよりいっそう泣きじゃくるのに、もう彼には抱き締めて泣き止ませることは叶わない。

頼むから泣かないで。

天国に行って、笑って。

天国ではあの人が待っているんだから。

先に旅立ってしまった、彼の最愛の妻が。

娘の成長を楽しむ間もなく先立ってしまった優しい人が。

だから。

「…頼む」

彼の大切な娘。あの人の大切な忘れ形見。

「…頼む」

どうしてこんな未来になってしまったのだ。

妻を亡くして、生きることを放棄しようとしたこともある。

それでもまだ小さな娘がいたから生を選んだのだ。

家族三人が揃った唯一の写真は、娘がまだ乳飲み子の頃で。

妻はその後すぐに病に奪われて。

絶望を味わいながらも懸命に生きて。

娘の成長を、妻の分まで。

なのに。

なのに。

どうして。

仕事で少し帰りが遅くなっただけだ。

今までも何度もあった。

遅くなる日は帰りの途中でケーキを買って。

遅くなってごめんねと、寝る前に2人で食べるのが日常だったのに。

 
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ