短編
□雪の消える朝に
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−−−−−
深手を負った雪の子と別れてから、数日が過ぎようとしていた。
冬の山、雪は瞬く間に全てを白に包み、もう大丈夫だろうか、あと少しは我慢するべきだろうかと緋翼は幼い娘に逢いに行きたい衝動に駆られ続けていた。
瞼の裏に焼き付いた娘の微笑み。
その身体に触れたら、どうなってしまうのだろうか。
彼女が、ではなくて、緋翼が。
冷たい雪に触れてみたかった思いとよく似た、焦がれるような。
だが何かが違う。
雪に見た思いとは違う、欲望じみた何か。
「…もう傷は塞がっただろう…」
自分に言い聞かせるように呟き、緋翼は灼熱の故郷を静かに離れた。
−−−−−
雲の上の夜空は満天の星の輝きを緋翼に見せつける。
果てしなく続く美しさに、しかし緋翼は見向きもしない。
今までなら魅入っていた美しさだというのに、心が他方を向いているせいで魅入る時間すら惜しかった。
ただ、彼女の元へ。
一刻も早く無事を確認したかった。
火の粉を軌跡に残しながら飛び続け、辿りつく雪山。
数日前よりも一段と積もった雪に、安堵の溜め息が零れた。
一面の雪景色に飲み込まれてしまいそうな畏れすら胸に抱く。
だがどれだけ積もったとしても、緋翼が近づきすぎれば溶けてしまう脆さも雪の一面だ。
雪に影響しない程度に離れた上空から彼女を捜す。
男達が捨てていった農具も、もう雪に深く埋まっているはずだ。
なら彼女は?
あまりにも静かすぎる山は、まるで死に絶えたかのようにも感じられて、ぞっと背筋に悪寒が走る。
娘に促されるままに助けを呼ばなかったが、それははたして正解だったのか?
「−−火車様…」
声が響いたのは、そんな時だった。
彼女によく似た、しかし少し大人びたような声。
声の方に吸い寄せられるように身体をそちらへ向ければ、ようやく見つけた。
逢いたかった彼女がいてくれた。
しかし姿が違う。
成長した、というべきなのだろうか。
「先日は助けていただき、ありがとうございました」
雪山にぽつりと浮かぶ、白い娘。
最初に見た頃のような幼児ではなく、美しく成長した娘だった。
雪のように白い髪と白い肌。瞳だけは厚い雲を思わせる灰色をして。
「…驚いた。まさか数日でここまで美しくなるとは」
「御冗談を…」
遠く離れた場所から、見下ろして、見上げて。
軽口は叩けても、頬を少し朱に色付かせながらはにかむ娘をただ魅入ることしかできなかった。
聞きたいことはいくつもあった。
なのに、言葉に出来ない。
「あの…火車様?」
見つめられ続けて恥ずかしくなったのか、一瞬視線を落とした娘は決心を決めたかのように緋翼を呼ぶ。
「あ、ああ」
「御礼をしたいのですが…私が造るものは、どうしても溶けてしまいそうなのです。それで、何か私に出来ることがあれば…」
どうやら娘も、この数日はずっと緋翼の事を考えていたようだ。
娘の贈り物は、どうしても炎に溶けてしまう。
そっと手を合わせて緋翼を見上げながら、娘は申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「本当に感謝しております。あのままでは、私はこの山を殺してしまうところでした」
「…助かったのだ。そこまで考えなくても構わない。健やかにいてくれたらそれで」
その健気な姿に自然と頬が緩むのを感じ、緋翼は笑顔が零れるままに娘に話す。
「それでは私の気持ちが治まりません」
しかし娘は真剣な眼差しでそう言い返し、どうか、と願い出た。
真面目な姿に苦笑して、緋翼はそれなら、と言葉に甘えて知りたかった事の一つを尋ねる。
「なら…」
夢にまで出てきた娘。
その身を案じて、夜も眠れなかった。
「…貴女の名前を教えてほしい」
「……名前、ですか?」
考えもしていなかったのか、娘はその願いにキョトンと目を丸めた。
だが緋翼が小さく頷くのを見て、
「粉雪、と申します」
伝えられる、娘の名前。
「粉雪か…私は緋翼だ。次からは‘火車様’ではなくそう呼んでおくれ」
「え…」
このまま別れるのはどうしても嫌だった。
再度目を丸くした粉雪に、緋翼はただ静かに、優しく微笑んだ。