エル・フェアリア

□第1話
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「−−殺せ」
 薄暗い室内に微かに響いた低い声は、泣きじゃくる少女の声に掻き消されることなく彼の耳に届いた。
 そのひと言が誰に、どういった理由で告げられたものなのか。
 理解することはあまりにも簡単だった。
 彼は必死に腕を伸ばす。
−−駄目だ。やめろ。
 やめてくれ。
 殺せと命じられた男が見慣れた剣を手に少女を背後から捕まえ、同時に少女の悲鳴がいっそう強く悲惨なものに変わる。
「−−逃げて−−」
 視界は霞み、少女の姿が赤くぼやけ。
 動かしたくても動かせない体に焦りが募っていく。
  やめてくれ
 だが願いは当然のように叶えられなかった。
 少女の胸から剣が生えた瞬間、別の幼い声が金切り声を上げた。
 ずるりと剣を引き抜かれ、彼の目の前で、彼の唯一が羽のように軽やかに地に伏す。

   様…

 彼が覚えている景色はそこまでだった。

−−−−−

 この国には、不必要なほどに多くの兵士がいる。
 世界を被うほどの大きな戦の終結から数十年が経とうというのに、男は家庭を女に託し、競うように兵士に志願して腕を磨いた。
 理由はごく簡単だ。
 この国では実力さえあればどこまでも駆け上っていくことが出来るのだ。
 ひどく貧しい産まれであろうが、四肢のどこかに欠損があろうが、実力さえあれば兵士として出世の道が出迎えてくれる。
 そして、貴族にしか与えられないはずの騎士の称号すらも実力が備わっていれば手に入れることが出来た。
 もちろん平民が騎士に至るには努力した程度の努力だけでは不可能だ。天性の能力と運、そして確実な魔力が備わってようやく目を向けられる。魔力を持つのは貴族ばかりである為、必然のように騎士の称号を得られるのも貴族達であったが。
 ニコルはそれらを持っていた。
 天性の剣術の能力も、莫大な魔力も、奇跡に近い強運も。
 持っていたからこそ、貧しい家に産まれながらも彼は今、ここにいる。
 虹と鉄の大国エル・フェアリア。
 膨大な規模の国土と豊富な資源を持った国の王都、そのさらに中央に存在する王城にいるのは国王と王の子供達、そして三千人以上の貴族の出自の者達と、たった一人の平民だ。

「どうした?ニコル」
 木々に囲まれ、まるで周りから遮断されたかのような城内の一角から遠方を眺めていたニコルが、名前を呼ばれて名残惜しむように視線を“そこ”から逸らした。
 今の彼は仲の良い若騎士達三名と共に騎士団長直々の訓練を受けていた。生真面目な彼は普段ならよそ見など絶対にしない。
 だというのに気をよそにやっていたことが非常に珍しかった。
 怒っているわけではないのだが「すみません」と申し訳なさそうに謝られ、そして続けるように口を滑らせる。
「あっちの木の影に、ガウェとリーン様が見えたんで…すみません、訓練を続けます」
 騎士団長の強烈な扱きに彼を含めた若騎士達は全身泥と生傷まみれだが、それを苦にする素振りも見せずに淡々と話す言葉はどこか荒い。
 平民から騎士に抜擢された唯一の存在であるニコルにとって、まだ上品な言葉遣いというものは苦手なのだろう。
 ニコルが口にしたガウェは、本来ならこの訓練の場にいなければならない若騎士だが。
 騎士団長はやれやれとニコルが目撃したという場所に視線をやり、
「−−−−っっ」
 弾かれるように体を強張らせた。
「…団長?」
 動かなくなった騎士団長に四人分の怪訝な眼差しが容赦なく刺さってくる。
「…お前達は訓練を続けなさい」
 それだけの言葉を、喉をひねりあげる思いで告げて、四人に背を向けて歩き去った。
「…どうしたんだろう?」
「さあ…」
 背後からは若騎士達の困惑した声が聞こえてきたが、気にしている暇など無い。
−−何故だ?
 あの場所に向かいながら、騎士団長は自身に訊ねていた。
 いつもなら気にしない光景だ。
 だというのに、何故体が動く?
 いつもなら無視する“命令”が、なぜか今日に限って使命感をくすぐらせた。
 その“命令”を受けたら最後、きっと自分は永遠に許されない存在になってしまう。なのに。
−−せめてニコルには気付かれないように
 ただ目撃し、他意無く騎士団長に告げてしまった若騎士を思う。
 平民から唯一騎士になった彼は、少しは融通を覚えた方がよいほどに真面目な性格をしている。
 そんな彼が今から起こる出来事を知ってしまったら、きっと目撃した自分を責めてしまう。
ーーそれだけは避けなければ。
 “あの方”によく似た、素晴らしい才能に溢れた若騎士なのだ。
ーー何としても隠さなければ。

 騎士団長クルーガーがその秘密を隠しきれたのは、全ての物事が動き始める五年後までの短い期間だけだった。


 
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