エル・フェアリア2
□第77話
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第77話
「陛下」
幼い少女の呼び声に、バインドは去ろうとしていた歩みを止めて振り返った。
定期的に会いに行く愛しい緑の姫ではない、別の幼い声。
バオル国のアン王女を秘密裏に匿ってから何年経つだろう。物心ついたと同時に暗殺されかけた隣国の唯一の直系王女。
ラムタルで身を潜めながら、いつかバオル国に正当な王女として舞い戻る為に血の滲む努力を惜しまなかった。
幼い容姿の内側に宿るのは、心の年齢を老いるほど進めなければならなかった痛々しいほどの責任感だ。
ラムタル王城で匿っているとはいえ、バインドはこの幼い王女に深く関わることはしなかった。
匿う間の命の保証は約束するが、後は自分達だけで全てを終わらせる事が条件だったからだ。
せいぜい年に一度、アン王女の誕生月にささやかな贈り物を手渡す程度の交流。
彼女がラムタルで匿われている事を悟られない為にも、仕方の無い事だった。
そんな中、オリクスの率いる一団はラムタル国との交流のために数ヶ月に一度、数日間だけ王城に滞在してバインドとも親交を深めていた。
それはアン王女が匿われるより以前からの親交ではあったが、結果としてその交流がアン王女の命を救ったことになる。
バインドが面倒な他国の内乱にほんの少しだけ力を貸したのは、その交流があったからなのだ。
友の願いを叶えてやりたい。
ただそれだけ。
国と国との交流とはいっても、結局は大国ラムタルの機嫌を損ねないようにバオル国が機嫌を取りに訪れる訪問だった。
そんな打算的な訪問であったとしても、バインドと歳の近いオリクスは、いつの間にか気を許せるほどの友となっていた。
バインドがまだ王子だった頃から、オリクスだけは媚を売ることをしなかった。
真面目で頭が固く、面白みの無い人間性だとまで言われていたが、博識であらゆる分野に興味を持っており、話せば話すほど味わい深い感性の持ち主だった。
軽いノリでその場をしのぐようなことをする性格でないのはバインドも同じだったので、馬が合ったのだろう。
彼が使節団に加わりラムタルに訪れた日の夜は、遅くまで議論を交わしたものだ。
奇妙な手紙が届いたのは、バインドが王になった後のことだった。
良き親交の証にとオリクスに贈った伝達鳥が、ある日ふわりと訪れた。
たまに何気ない日常のやりとりをしてはいたのでその流れで訪れたと思っていたが、伝達鳥が持っていた手紙に書かれていたのは、是非読んでみてほしいと本のタイトルが数冊分。
いずれもラムタルの書庫に深く眠る古いものだったが、気になって本を手に取ってみれば。
暗号にはすぐに気付いた。
それまで何気なく送られてきていた手紙と、古い書物の中にある一文と。
全てをつなぎ合わせてみれば、日付と場所の指定が。
そして指定された日にその場所へと内密に向かってみると、傷だらけになったオリクスと、バインドもよく知る彼の仲間たち、そして吐血の跡をドレスに残したままの幼い少女がいた。
毒を盛られたのか、血の気の引いた白い顔色の少女。
アン王女だと気付くと同時に、連れていた癒術騎士のアダムとイヴが王女の元へと駆け寄り、治癒を施した。
王女は身体の苦しみが取り払われる過程で安堵したように気を失い、介抱を仲間に任せてオリクスは両手を地につけ、バインドに深く頭を下げた。
助けてほしい、と。
バオル国の王権を狙う者が放った刺客に王女は狙われた。
だが狙われることをオリクス達は気付いていたのだ。
日時、場所、方法に至るまで。
だから先回りして、王女を逃がすことを優先した。
オリクス達が、アン王女が安心して国に戻れる準備をする間の保護。
バインドは承諾した。
バオル国の為ではなかった。まだラムタルが落ち着いてもいないのに、他国を気にかける余裕などなかった。だがオリクスという友の頼みだったから。
条件はそれなりに付け、アダムに王女を抱えさせ、バインドはオリクスと離れた。
面倒ごとだとわかりながら、受け入れたのだ。
「…エル・フェアリアの皆様は、願いを聴き入れてくださるでしょうか」
かつての回想に頭を使った後、アン王女の不安そうな言葉にふわりと微笑んで。
「コウェルズの周りの者達には、情に深い者が揃っている」
だから心配するな、とまでは言わないまま、バインドは王女の部屋を後にした。
人気のない広い廊下を歩きながら、自分の言葉を思い出して苦笑する。
オリクス達がエル・フェアリアに頭を下げた願い。コウェルズだけなら、聞き入れられなかっただろうとわかるから。
エル・フェアリアの頂点に立つべく育てられたコウェルズは、バインドやオリクスのような、言葉にできない類の慈悲を持たないから。