エル・フェアリア2

□第74話
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第74話


それでは、と。

まだ日も顔を出さない早朝に、モーティシアはネミダラに頭を下げてから微笑んだ。

王城勤め達の居住区で最も豪華な邸宅の正門にはモーティシアとネミダラしかおらず、薄闇の中ただ一人だけでその邸宅を後にして。

治癒魔術師とその護衛部隊のみで行った豪華な宴から一夜明けて、まだ皆が眠る時間に一人だけでこの場を後にするのは、単純に他と顔を合わせるのが気まずかったからだ。

ほんの少し前まで、モーティシアの頭の中にはアリアに優秀な男を充てがうことしかなかった。それが突然アリアの幸せを望んでいると気付き心変わりをしたものだから、周りがそう簡単にモーティシアをすぐ信じるとは思えない。

せっかくの休みだ。モーティシア抜きで気持ちが楽になるのなら、そちらの方がモーティシア自身も気楽にいられるというものだ。

初冬の薄闇の中、白む吐息で指先を温めて。

モーティシアの個人邸宅はここから歩いて少しかかるが、馬の足より自力で歩きたい気分だったので体は軽く、時間帯のおかげか人のいない広い道はとても心地の良いものだった。

他の者達は今日の昼過ぎには邸宅を出て王城に戻るだろうが、モーティシアは今日も丸々休みを取っており、そして今日は個人的にとても重要な日で。

楽しみにしていた書物の新刊が発行されるのだ。

内容はモーティシアにしては珍しく冒険ものの恋物語なのだが、緻密な世界観は多くの知識を与えてくれた。

長く続く物語は幾度となく主人公とその恋人に危機を与えてきたが、いつだって知識が彼らを救ってきたから。

子供の頃から読んできた物語は、もしかしたらモーティシアが知識を欲しがるきっかけになっているのかもしれない。

作者の体調不良から数年間休載となっていたが、今日から物語は再び進み始めるのだ。そう思うだけで、まるで童心に帰ったかのように心はワクワクと浮かれた。

今日一日だけは、モーティシアも自分が治癒魔術師の護衛部隊長であることも、内密の任務のことも忘れるのだ。

もちろん綺麗さっぱり忘れたままでなどいられないが。

ゆっくりと自宅へと進み続けて、やはり馬の足を借りればよかったかと思い始めた頃合いでようやく小さな邸宅に到着して。

上位貴族や中位貴族の個人邸宅と違い、下位貴族の生まれであるモーティシアの個人邸宅は平民の暮らす家とそう変わりはない。

家は小さいので使用人もおらず、たまに遊びに来るような身内も恋人もいない。

寂しい男の一軒家に久しぶりに足を踏み込めば、部屋の中は以前訪れた時と全く同じ状態を保っていた。

本棚に収まりきらないほどの書物と書き物。机の上には脱ぎ散らかしたまま面倒で放置していた衣服が数着。

王城の外周中間棟にあるモーティシアの室内は小綺麗に整頓されているというのに、ここはあまりにも人間臭く雑多だった。

人目の無いところでまで品行方正でいられるものか。自室は少し汚いくらいが一番物事がはかどるというものだ。

それにしてもたまにしか帰ってこない我が家に久しぶりに戻ったら、脱ぎ散らかした衣服を今度こそ整頓しようと思っていたはずなのだが。

「…後でいいでしょう」

外套を脱がないままソファーに腰掛けて、だらけながら目を閉じて。

自分でも知らず知らずのうちに気を張っていたのだろう。自宅に戻った瞬間に気が抜けて、今にも寝落ちてしまいそうだった。

本屋が開くまでの時間は部屋の片付けをしようと心に刻んだ決意はどこで迷子になっているのだろうか。

思い返せば多くの出来事があったから、自宅に戻れば気が抜けるのも当然だ。

それに。

「……前にここに帰ったのはいつでしたっけ?」

自問自答したのは、だらける自分を肯定する為だ。

恐らくモーティシアだけではないはずだ。

ファントムに王城を襲われてからこちら、慌ただしい城内を駆けまわり続けていたのは王城勤め全員に言えることなのだから。

城下に家庭がある者でさえ家に帰れていない、という話も聞いていた。

静かに目を閉じて、本屋が開く時間まで瞑想でもしていようと思考を停止して。

アリア。

ふと、彼女を思い出す。

アクセルやトリッシュ、セクトルだけでなく、モーティシアも彼女の夫候補として名前が上がっていたのに、なぜ自分は彼女に近づかなかったのか。

答えはあまりにも簡単だった。

アリアは明るく社交的で、勤勉な努力家。頭も良い。

だが、学がない。

王都やその周辺ならば平民でも当たり前に持つ学力を、アリアは持たなかった。

それは生まれた場所が原因なのだろうが、モーティシアはどうしてもそれを受け入れることができなかった。

なんて勝手な理由だろうと、自分自身に苦笑する。

 
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