エル・フェアリア2

□第68話
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第68話

これが悪夢だとパージャが漠然と気付けたのは、この後どうなってしまうか知っているからだった。

前日の大雨で増水した川のふち。重い身体を引きずるように歩きながら、これが悪夢であり、なおかつ体験したことのある過去だと理解する。

見慣れたはずの自分の手は子供のように丸みを帯びていて、汚てしまった闇色の髪も短い。

夢の中で十年前の過去の世界を歩き続けて、とうとう身体に力が入らなくなり、その場に倒れた。足から崩れるように倒れて、右の頬が岩にぶつかりゴツリと嫌な音が鳴る。ギリギリのところで川から顔は出ているが、身体が水に浸されてひどく寒かった。

いつもこうだった。

何かよくわからない漠然とした恐ろしい存在に追われるから逃げ続ける日々。ひとつどころにゆっくりと腰を落ち着かせることができた試しがない。

いっそ死ねたら楽だったはずなのに、自分の身体はなぜか怪我を許さず、死ぬことも叶わなかった。

だからきっと、得体の知れない敵に捕まってしまったら死よりも恐ろしいことが待っている。だって死ねないのだから。

もしかしたらこのまま水にさらされ続けていれば死ぬこともできるかもしれない。割れた頬骨が修復されたのを感じながら、今にも消えそうな意識に身を委ねるように目を閉じようとした彼のかすれた視界の片隅に、桜の花びらが散った。

さくら、と。呟きたかったのに言葉はかすれて出なかった。

言葉になっていないはずだった。

なのに。

「−−さくらって、なぁに?」

視界の端をかすめた桜がふわりと話しかけてくる。

舌ったらずで、幼い声で。

重い瞼をなんとか開けて、それが桜の花びらでなく人間の幼い女の子だと気付いた時には、女の子の薄桃色の髪がそう見間違えさせたのだとも理解した。

理解はしたが、何かが癪に触って。

「…あげないよ…さくらは…俺のだから」

今まで生きていた中で一番大切にされた時の名前だから。

無理やり修復された身体を自分の力で懸命に起こして、水の中から這い出て。

女の子は彼を興味深そうにじっと眺めていたが、その言葉の意味はわからないようで首を傾げていた。

小さな女の子はこの近くの村にでも住むのか、小さな身体に似合わない大きな籠を両手で持ちながらじっと彼を見つめ続けてくる。あまりにも目を見つめてくるから、妙な居心地の悪さがあった。

籠の中には植物が少し入っており、この未熟な女の子が摘んでいたものだとわかるほどに摘まれた茎がぐずぐずに崩れている。

「おにいちゃん、どこいくの?」

まだ重い身体を引きずりながら女の子から離れようとしたのに、なぜか付いてくる。女の子の足に余裕で追いつかれているのだから、自分がどれほど弱っているかが知れた。

「…どこだろうな…適当に歩いていくよ」

今はとにかく離れなければいけないのだ。また何か得体の知れない存在が自分を襲いに来る前に安全な場所を確保しなければ。身の安全のために探すのは危険な変態趣味のある金を蓄えた大人で、こんな小さな女の子にかまけている時間などない。だというのに女の子は離れようとはしなかった。

「ミュスね、おばあちゃんのおてつだいしてるの。やくそうをいっぱいとったら、いっぱいよろこんでくれるの!」

嬉しそうに籠の中を見て見てと突き出してくるが、籠の中に入っている野草は残念ながら薬草と似てはいるが別物だ。いくつかは薬草も入ってはいたが、半分にも満たないだろう。

あのね、それでね、と話しかけてくる女の子の存在は疲れきった身に疲ればかりを染み渡らせる。

「…ミュスちゃん?俺はもっと先に行かなきゃダメなんだ。だからここでお別れしようね」

先ほど女の子が自分で口にしていた名前だろう単語を使いながらバイバイと手を振れば、女の子はムッと頬を膨らませた。

「ミュス、ミュスじゃないもん!」

「……え、何?」

突然怒るので思わず足を止めてしまった。

「ミュス、ミュスパーシャっていうんだもん!」

「…ミュスミュスパーシャ?」

「ちーがーうーのー!!ミュスはミュスパーシャっていうの!!」

「ぁ、そういうこと…ミュスパーシャちゃんね」

彼がなんとか間違うことなく名前を口にしてやれば、女の子は怒り顔を一変させてとても嬉しそうな笑顔になった。

「じゃあミュスパーシャちゃん、俺とはここでおわ」

「おにいちゃんのなまえは?なんていうの?」

ミュスパーシャから離れようと思ったのに、どうやら離してくれる気配が見当たらない。

いくら幼いにしてもあまりにも警戒心が無さすぎではないだろうか。彼女のこれからが妙に心配になって、思わず足を止めてしまった。

 
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