エル・フェアリア2
□第54話
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第54話
「おにいちゃん、なまえがないの?」
幼すぎる柔らかな声が、まるで絹の肌触りを残すように耳の奥を撫でる。
心地好い音色は少女の桜色の髪と相俟って、彼の擦りきれた心身を癒してくれた。
−−何でもいいから、適当につけてよ
かすれる声でそう願えば、少女は天を仰いで考えるような仕草を見せる。
何でもいい。名前なんて、彼にとっては大した意味のないものだ。
気に入りの色から名付ければいい。好きな言葉から名付ければいい。珠玉の名も、蔑みのあだ名も、どれもこれも、いつかは彼から消え去るものだから。
今をしのぐために、呼びやすいように名付ければいい。
愛玩動物のように、玩具のように。
川辺の道をゆっくりと歩きながら、少女は「あ」と何か思い付いたように笑顔になった。
はたしてどんな名前を思い付いたのか。
花の名前をつけてくれた優しい夫婦がいた。宝玉の名を与えた色狂いの貴婦人もいた。
この少女はたかが知れた短い人生の中から、どんな名前を彼につけようというのか。
目に痛すぎる青空から逃れるように瞳を閉じた彼の耳に。
「ミュスのおなまえ、わけてあげようっておもったんだけどね」
思ってもいなかった言葉に、思考回路が一瞬停止する。
「ミュスね、ミュスのほうがかわいくてすきだから、おにいちゃんがパーシャでいーい?」
ありふれた名前がこだました。
だがパーシャは、女によくつけられる名前ではなかったか。
「ミュスのなまえ、はんぶんあげるね」
今まで数多くの名前を与えられた。
だが、名前を分けてくれた人はいなかった。
それが大切なものだと幼い身で知っていながら。
彼はただ少女を見つめる。
かつて彼に与えられた、唯一優しかった名前と同じ桜色の髪をした、幼い少女を。
「…ミュス」
「なぁに、パーシャ」
自分で名前を分け与えておきながら、名前を呼ばれ、呼び返し、少女はクスクスと面白そうに笑う。
逃亡ですさんだ心を癒してくれるような綺麗な笑顔。
「…ありがとう。大切にするよ」
その時はまだ口先だけの約束だった。
いつか消え去る紙屑程度の約束。
そのはずだったのに。
パーシャという名は少しだけ形を変えて、今も彼の宝物であり続けている。
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