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□夜に希望は亡く
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あの吸血鬼の屋敷から逃げられたのは、人生最大の幸運だった。
奇妙な矢で指先を切ってから目覚めた能力であの屋敷から抜け出した俺は、ようやく日本の家族の元に帰り着いたのだ。
たった一人のエジプト旅行から帰らない俺を心配していた家族に泣きつかれ、俺も少し泣いた。
あの屋敷の話は誰も信じてくれなかったから、そのうち俺も忘れることにした。
身体中の鬱血痕が消える頃には誰もその話題どころかエジプトに関する話題にすら触れることはしなくなった。
「それでさぁ、本当彼氏うざいの!束縛酷いしさぁ、その日何があったか逐一報告しなきゃだし、毎日の電話ももう…」
「別れちまえよ、そんな男〜!」
大学のサークル仲間。彼女には恋人がいるが、彼は彼女に恋をしている。
彼女もそれはまんざらでもないようで、いつか彼氏と別れてくっつくのではないかと思っている。
「今日も実は二人と……ていうか男と飲みに行くの言ってなくて…やばいよね」
「黙ってりゃわからねーよ!なぁ、名前」
「そうだな…。でもバレたらちゃんと謝っとけよ」
「うん」
「何かされたら言えよ〜!彼氏でもしていいことと悪いことはあんだから」
「ありがと」
二人がいい雰囲気になったところでちらりと時計を盗み見る。
21時。飲みの帰りにしては随分早い時間だが、22時までには家に帰ることがあの時からの暗黙の了解となっていた。
「悪い。俺帰るわ」
「えーっ、もう?」
「悪いな、また誘ってくれ」
「お前も大変だな。またなー!」
2人に軽く手を振って店を出る。
男とぶつかりそうになったのを辛うじて避け、タクシーを捕まえる。途中で姉を拾うためだ。
「杜王駅へ…」
「杜王グランドホテルだ」
「え──、」
「かしこまりました」
突如聞こえた第三者の声に呼吸が止まる。しかし、タクシーはそんなこと御構い無しに走り出す。
一気に血を失った時のように全身が冷えていく。
俺は、この声に、聞き覚えがある。
「どうした?こちらを向け。名前」
「なん、で……っ」
脳裏にあの屋敷でのことがフラッシュバックしていく。
目の前で望んで死んでいく女たち、出口のない屋敷、太陽の届かない部屋、首に突き立てられる牙、抱き潰された無数の夜──
「ッッ!!!」
慌てて扉に手をかけるが、走っている車の扉は開かない。──けれど。
「『ロック』!!」
指先が鍵になっている俺のスタンドは、あらゆるものの鍵を解錠する。
「──ッッッあ゛あ゛あぁぁ゛!??」
次の瞬間、俺の人差し指には激痛が走った。
指が変な方向に曲がり、折れている。
息が出来ない程の痛みとショックに涙が滲む。
「成る程、鍵のスタンドか。更に言うならば固定と解放、と言ったところか?」
「う゛う゛ぅあ……ッ」
「逃げるなよ、名前。見ろ」
体を丸めて痛みに耐える俺の顎を無理やり掴んで窓の外を見せる。
杜王駅だ。──姉がいる。大量の買い物袋を持った姉が一人で立っている。
「美しい女だ」
タクシーの運転手がじゅるりと舌なめずりをした。
その口の端からのぞいたのは牙だ。
「──ッッ」
あの女たちと姉が重なる。
「家族に手を出すな!」
「ならばどうすればいいか、わかるな?」
「……っ」
「さあ、選べ」
今度こそ二度と帰れないことを悟る。
目を瞑り、心の中で家族に別れを告げた。
胸がぎゅう、と締め付けられる。
「……っ、DIO、様……、貴方に、俺の全てを、捧げます…」
店先でぶつかりかけた男。今更思い出したが、あれはあの子の彼氏だった。
でも、あの子にはあいつがいる。
友人達には希望がある。
友人達を想って手を伸ばしたが、その手は掴まれ、首に鋭い痛みに目の前が真っ暗になった。
さよなら太陽
(決定的に身体が変わっていく感覚に吐き気がした。)