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自分は、何を望んでいる。

「…はあっ…はあ…っ」

自分は、何のために生きている。

「気持ちイイなら言っていいんだよ…」

感じるとは、何だ。

「イイ…」

本当の自分は、どこだ。

「綺麗だ」

自分は、誰だ。















ネオンの光を眩しいとは思わなくなった。
別れ際、男は名残惜しそうに「すごくよかった」と肩を抱いてくる。
ごっこか本気かは曖昧な抱擁をしてきて、次回の約束を促してくる。否、強要だ。

「俺も、気持ちよかった…また会ってほしい」

すっかり自分の口は社交辞令を弁えているらしく、相手を期待させるには十分だった。
声のトーンから表情まで抜かりない。目まで笑う術が、高杉にはあった。
男は自分を素直で可愛い子でよかった、と初見の緊張感を解いており、する前よりも好意的だった。
嬉しくないわけではない。気に入られたいのは確かだった。
だから自分は、約束を否定しなかった。

駅で男と別れた。
この瞬間、胸の中が空っぽになる。
これは別に相手のせいじゃない。自分がただ、本当はすべてに無感動だからだ。

(俺は、何だ…)

一時の衝動で今夜に至ったわけだが、それが何故なのかは、よくわかっていない。
男の巧みな愛撫に自分は喘いでいたが、あの時間の終わりを只管望む自分にも気づいていた。
セっクスを肉体が欲していたはずなのに、いざしてみればこの有様だ。
本当は嫌いなのではないかと疑うほどに、興ざめしていたのだ。



「高杉晋助。出席番号23番。成績はAでそこそこ優秀。両親もご健在…で、どうしてこんなことしてんの?」

白を基調とした病院のような場所。
保健室に白衣を来た男と、生徒が一人向かい合い、丸椅子に座っていた。

「金銭とは無縁みたいだから、法にはひっかからないけどね。噂は本当だったんだ。食った数も信じていいわけ?
三桁ってどうよ。よく死んでねえな」
「肉体はね。俺は多分、淫乱なんだろうな…男を見ると、つい誘っちゃうんだ」
「掲示板を利用していたのは?」
「もっとヤラしいことを、してみたかったから…」

目の前の生徒の瞳が妖艶さを帯びた。
男好きしそうな顔立ちと雰囲気には、自分ですら誘惑負けしそうだ。

「いいんじゃない、別に。淫乱なら淫乱で、お前なりの美意識なわけだし。趣向ってのは、人がどうこう言って、
変えられるもんでもねえしな」
「………」
「気になるのはさ、どうしてお前、カウンセリングに来たのかってこと」

人は本能に従ってはならないという、社会の掟のもと、暮らさなければならない。
社会からの拒絶を恐れて個を殺す、あるいは個を守るために社会に殺される。
この真実に気づかず、うまく渡り歩ければ人は矛盾に満ちた世界でさえ、幸福を手に入れることが出来る。
だがもし、その真実に気づいた時、人はあらゆる摩擦に苛まれ、狂気、あるいは。


「嘘だよ…」
「………」
「…俺、本当は何も、感じてないんです」


無にならざるを得ない。
人は、自分がひとりであるという現実に耐えることが出来ない。
生まれながらに「集団の一部」を強要され、それが正しいと刷り込まれているからだ。
最初から、集団の一部になどなれやしないのに。

「なるほどね。お前が死んでないのは、肉体だけってことか」

翼のない身体がいくら自由を求めて跳んだとしても、そこは落ちるだけの深い底。
少年の過去など知る由もないが、彼の精神が何らかの社会による激しい抑圧と、裏切りによって破壊されたのは確かだ。
わずかな断片が、未だにもがいていると言ったところか。

「感じもしねえセっクスに、お前が執着する理由は、とりあえずの生きる糧ってやつかい」
「感じねえのか…まだ感じるセっクスに出会えてねえのかもしれない」
「それで、また野郎を誘っちゃうわけだ」

何度やっても同じなのだと、この少年はきっと理解している。
だけどやまないのは何故か。
人がそうした矛盾を繰り返すのは、まだ生きる意志があるからか。
若さゆえに、知らない答えがあるかもしれないという期待があるからか。

「俺とも寝てみるかい」

少年は俺を見て、暫く沈黙した。
そうして、ふと広がったのは艶めいた微笑だ。あまりに、希望のない。



俳優という役持ちでなくとも、驚異の演技力を備えている人間は存在する。
詐欺師などはその類だろうが、この少年は不感症を毛程も感じさせなかった。
喘ぎ声も絶妙のタイミングで出すのだった。
おまけに俺を招いた筒は熱く、狭く、誘い込まれた人間ならすぐにでも気をやりそうな器だ。

「とんでもねえガキだな、お前…」
「ヨカった?」
「ああ…大した“役者”だ」

その時の高杉の反応は、何と言うのが適切だろう。
多分、高杉は光よりも闇に惹かれる性質だから、恐らくこうした褒め言葉は好きだろう。
だがその眼の奥には、深すぎる闇があった。

「お前は?」
「…………」
「早く終わりにしたかったか」
「…先生…」

高杉は僅かに眉を寄せて俺の手を握ってきた。

「ちょっとだけ…今日は楽しかった」

嬉しいというより、彼はほっとしていた。
彼には、行為自体を楽しむ余裕は常にないのだ。
セっクスをするたびに、なぜ感じないのだと自分を終始責めつづけては、自身を偽り続けなければならない。
苦痛しかない。苦痛以外を見出そうと、彼は足掻いているだけだ。可哀想に。

「なあ先生…」
「ん?」
「人って変われる?」

帰り際、そんなことを聞いてきた。
長い沈黙を破った言葉だった。

「人は“変わっちまう”生きモンさ」

高杉は全身を俺に向けてきた。

「悪い意味?」
「どっちもだ。お前がよく知ってることだ」

信号が赤になったので、二人して同じタイミングで立ち止まる。
突然車が速度を上げて横行する。

「人が信用できねえ生きモンだってことは、よく分かってるだろ」
「…うん」
「人の中には無限の要素があり、精神というカテゴリーに関しては、それこそ可能性は計り知れない。
性格というものほど、信用のならねえものはねえ。たとえばこの俺が…」

中々青にならない。俺たちは少し横の距離を縮めた。

「今は教師としての優先順位から、お前を助けてえと思ってる。だがこれが何らかの衝動で、
今度はお前を死なせようとするかもしんねえってことだよ」
「そんなこと…生徒に言っちゃだめだろ」
「でもお前は、俺がお前を助けてやるなんてほざいたら、反吐が出るだろ」
「……はは、違いない」

高杉は可笑しそうにケラケラと笑った。
何処まで繕っているのかわからないが、その笑いに嘘はないような気もした。
信号が漸く歩行の許可をくれる。
遅い足取りでボーダー柄の地を歩く。

「先生は…俺より裏がありそうで怖いや……」
「怖くなんかねえさ」
「うわ。大人の余裕ってやつ?」
「人に裏があるのは、必然的なことだからな。法律とか道徳とかで縛られてる社会でまともにやろうとすんなら、
表に出せる性格ってのは限られてくんだろ。全部出しちまったら、恐らく社会不適合者となり、
社会から外され、最悪死ぬしかねえからな…」

高杉はそれに対して何も答えなかった。
僅かに見せた唇の震えは恐怖心だろうか。

「人は本来有るべき姿ってのは無いと、俺は思うよ。器用なやつほど、性格の切り替えも出来る。まるで別人みてえにな。
要はそれが上手く出来るかだ。お前は色んな一面があって使い分けも出来るってのに、平気で使いこなせるだけの、
図々しさがねえんだよ」

恐らく自己の変化を、アイデンティティの消失に結びつけてしまっている。
彼は居場所を必死に探している。
それがセっクスというだけで、それしか浮かばないだけで。

「先生は持ってる?」
「ん?」
「簡単にオンオフ出来るスイッチ」
「あるよ。俺には」

それは一種の才能なのかもしれないが、俺はそれを苦痛に思ったことはなかった。
誰かを前に、あるいは状況を前にして、脳から指令が下ったとき、ロボットのように正確に従い、
それは限りなく自然のカタチだった。

「どうやったら手に入るのか教えてよ」
「俺は何でも屋じゃねえんでな。そんなものは自分で何とかしろ」

そろそろ高杉との別れ道にたどり着く。

「先生、薄情…て、言われたことない?」
「あるよ」
「やっぱり」

お前もだよ、高杉。世の中皆、薄情な連中なんだ。
ただそれを表沙汰にすると生き難いってだけ。

「なあ、先生…」
「ん?」
「俺、アンタを…好きになってもいい?」

俺は高杉をまじまじと見た。
初めて拝んだ顔かもしれない。
高杉のこれまでの生き方からは想像できないような、初々しい顔だった。


「お前みたいな面倒な奴、ゴメンだ」


お前にこの感覚は理解できないのだろう。
あまりに簡単に出来るスイッチのオンオフ。
高杉の顔は見る見るうちに悲痛に染まっていく。馬鹿なやつだ。

「信じらんねえ…信じらんねえ…」

高杉は涙目で牙をむき出しにした。
ほら見ろ。お前は所詮ただの一方通行で自分のことしか考えてない。
だから俺はお前を信用しないし、そんなお前に好かれたところで、俺にメリットはない。

「勝手に信じてんじゃねえよ」

高杉は俺を拒絶するように走り去っていった。



休日の夕方、学校の傍をたまたま通り過ぎた時、やたらとカラスが鳴き喚いているのを見た。
繁華街とは異なり、土日は人通りが少なく、街は比較的空気もきれいなはずだ。
おまけに曇天という、組み合わせは絶妙にして感じ悪い。

(カラスの導き…)

これだけ大群だと、何かの予兆ではないかと思う。
俺は黒い物体に好奇心を揺さぶられて、思わずカラスの集いに近づいた。
ちょっと距離があるのか、黒い道が続いていた。

徐々に啼き声が喧しくなっていく。
こいつらの啼き声は何度聞いても不穏で不快だ。
反面、俺はどこかその嫌悪感に、些か好意的だった。


一匹が唸るような声をあげた。


バサバサと一斉に一つの群れが飛び交い、ある一箇所に黒い海が出来ていた。
多分あれは、死神の大群だ。
地を何度もつつくクチバシは、刃物のように鋭かった。
何歩か踏み出したところで、俺は顔をしかめた。

腐臭だ。




「……………」




バサバサバサッ!
カアカアカア――!




「……………」




心底美しいと思える光景だった。
人の感情はいつだって移ろいやすいが、こうした、長い時間心奪われていたいという意志だけは、
嘘ではないと思う。
この場にいられる時間は限られているだろう。
瞼の裏で正確に思い描けるように、食い入るように見すえた。

少しして、女の叫び声が聞こえた。この場を物語るには十分すぎる音の響きだ。
静かにしやがれ。今、いいところなのに…。

「生徒が……っ生徒が、死んでるんですっ」

俺は真っ青な顔を振り向かせ、女に動転した声を浴びせて“みせた”。
女は震えていたが暫くして、「私、電話しますねっ」とバックの中をあさり始める。
きっと警察だ。そのうち駆けつけ、俺は第一発見者としてつまらない尋問をいくつも受けるだろう。
思わず見入っていたことなど微塵も感じさせず、俺はトラウマになったように声を震わせて語り、
いつもの日常を手に入れるのだ。



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