セブンスドラゴン2020―U

□遁走
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走れ走れ。立ち止まる事は許されない。






 それは雲一つない日のことだった。本来ならば、真っ青な空を見上げて今日は何しようかな、なんてのんびりと考えながら過ごせるくらい穏やかな日のはずだった。しかし、今の彼はそんな悠長な事に浸る暇など微塵もない。
 今はただ一刻も早く逃げなければ、あの場所から離れなければならなかった。
 そもそも、彼が逃げねばならないのか――それは、あの施設にある。
 国からの特務機関として謳われるムラクモ機関。表立てはマモノやらドラゴンから人類を守るために戦う者達を指すのだが、その裏で非道な実験――例えば無理やりS級に目覚めさせたりするなどしているのだ。
 彼もまた巻き込まれて加担をさせられていたのだが、ある日主導していた人間が施設に来なくなったのだという。
 それは何時だったか忘れたが、見張りが都庁からいなくなっただの、人ではなくなっただのと話してた朧げな記憶がある。
 そんな噂を流していた見張りもいなくなった地下牢を抜け地上へと這い上がった彼は施設に背を向け走り出していた。奴がいないのならば脱走のチャンスは今しかないと判断したし、何より真っ暗な地下牢獄で訓練と言う名ばかりの実験に加担するなど真っ平なのだ。
 だから彼は走っていく。自分が何処へ向かうのか考える余地など全くなかった。




 それからどれ程経ったのだろうか。時折、人が居ない家や店で小休止を挟みつつ行く宛がないまま歩いていた彼だったが、視線の先に人影を見つけふと、歩みを止める。髪を緩く束ねた女性だった。
 彼女は彼を視認したのか、ゆったりと近づいてくる。やがて彼女の顔の輪郭が、表情が顕になる。何処か虚ろな瞳とかち合った瞬間――彼は彼女とは真逆へと駆け出していた。警鐘がけたたましく鳴る。恐怖が全身を一瞬で駆け巡り、両の足が逃れようと懸命に動く。
 走る最中、彼の中で疑問がふと浮かび上がった。
 何故、何故奴がここにいる? 奴は確か行方知れずになったのではないか? 
 思い浮かべば次々と生まれるそれらを、しかし整理しようとする冷静さは現状には無いに等しかった。とにかく今は彼女に追いつかれてはならない。そんな恐怖心が彼の足をひたすらに動かし続けたのだ。



 それからどれくらい走っていただろうか。空気がひんやりしてきたと合わせて周りの景色は荒廃した街から殺風景な荒野に、やがては白銀と氷に包まれた場所へと変わっていた。
 眼下には自分の身長よりも遥かに聳え立つ氷壁が立ちはだかる。ふと、視線を下へ向ければぽっかりと入口が出来ていた。よく見ると階段があるのだが、先は真っ暗で何も見えない。
 この奥に進むのは今までより危険が伴うのは明白だったが、彼を止めるまでにはいたらなかった。
暗がりから吐き出された冷気に晒され、身が震えても足が止まることはない。空気を吸い込む度に肺が痛みを伝えようとも、凍えた水がズボンの上から足を包み込もうとも、氷のオブジェ達が彼を見つめようとも、彼は決して走ることをやめなかった。
 もし、ここで足を止めてしまえばこうして地上に出て僅かの間でも見てきた景色を見る事は二度と叶わないだろう。あの女に捕まってしまえば最後、自分を捕らえ続けてきたあの牢獄に――

「あら、追いかけっこはもう終わりかしら?」

 絡みつくような重い女の声が四方八方から響き渡る。その声に彼の足はとうとう動かなくなってしまった。
 何故だ!? 先程まで動けていたのに! 動け、動けよ! 頼むから動いてくれ! 
 自分の意志に従わなくなった両足に懇願する声も焦りから早くなる。こんな所で立ち止まっている場合ではないのに、早くしなければ奴に追いつかれる。そうしなれば――

 瞬間、下腹辺りに強烈な痛みが走った。正体を知るために視線を向ければ、鋭利な刃が突き刺さって真っ赤な血が伝っていた。
 理由を知れば痛覚は更に鮮明となって全身を襲い、口からは血と共に悲鳴が吐き出される。風景が傾き冷やされた水が全身を受け止め、肌が触れたところから新たな痛みを与えていく。
 このままでは冷たさに包まれて動けなくなってしまうだろう。だが、腹部から断続的に伝わる痛みとまとわりつく冷水により起き上がる体力と気力は奪われてしまっていた。
 ふと、気配を感じ目線だけを上げれば女が見下ろしていた。虚ろな瞳に、感情が一切読み取れない鉄仮面。やがて、口角だけをくっとあげる。喜色とは違う形だけの笑みが女の不気味さを一層際立たせた。

「安心なさい。ちゃんと、送り届けてあげるから、」

 その後に続けられた言葉は掠れて聞き取れない。いや、自身の耳が遠くなってるから聞こえなくなってるだけなのか。
 自分の息遣いも、腹を突き刺す痛みも、包む冷たさも、女の気配も。気付いた時には何もかもが遠くに離れていくような感覚に、あぁ、自分はもう死ぬのかと静かに悟る。ならば、抗うだけ無駄なのだろう。つい先程まで抱えていた恐怖心も逃げねばならないという焦燥もいつの間になくなっていた。
 何も考えるな、楽になれ。直接頭に響く言葉に誘わるように従う。
 ――あぁ、だけれども。瞼が徐々に重くなり、遠のく意識の中で一人おもう。
 三年前に生き別れてしまった兄は無事だろうか。せめて、元気な姿をこの目で焼き付けるだけでも、自分を心配してくれる優しい声だけでもを聞きたかった。
 それだけが、自分にとっての唯一の心残りだなぁ、と浮かんだ後悔を胸中にしまい込んだ。
 真っ暗な視界にぼんやりと浮かんだ兄が控えめに微笑む。その姿がゆっくりと闇に消えると、彼の意識は微睡みと共に落ちていった。

【2020/10/11】
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