3番目の信号機

□中間考査
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資産(assets)――特定の実体によって所有され、その実体にとって有用性を有する物財及び権利。主に現金や商品、備品、建物、土地。また、売掛金や貸付金。
負債(liabilities)――企業が外部の第三者に対して負う支払い義務の総称。「must」よりも「have to」。内側からの圧力よりも外側からの圧力。買掛金や借入金。



八畳一間の手広い質素な和室。その空間の中央を、タモの一枚板で丁寧に手作りされた風変わりな座卓が場を陣取る。
傍目に華やかで風情も涼しげな夏菓子と、結露して汗を掻いたグラスに注がれた緑茶は、はたしていつからそこにあっただろうか。

夏季最大の連休――基夏休みを目前に控えた前期の中間考査は、アンハッピーマンデーな週明けに迫っている。
じんわりと湿り気を帯びた日焼けで斑な肌になった腕に、卓上に広げたザラシのプリントがぺったりと貼りつく。
じりじり、じわじわ。沸々とした苛立ちを次第に煽る蝉の喚声に、風鈴の音は気休めにもならない。
無駄に広い屋敷中の障子戸を開け放ってもなお、むんむんと襲い来る日本国ならではの高湿度の熱気に、とうとう景浦は堪らず呻き声を上げて畳の上に倒れ込んだ。

損益計算書、貸借対照表、取引の8要素、勘定科目、勘定口座、仕訳、諸口、総勘定元帳。借方、貸方、残高、清算書、現金出納帳、現金過不足。

なんのこっちゃ。まるで呪文染みたそれらの膨大な量の単語に、ぐらりぐるりと視界が歪み、眩暈を催す。
損益計算書は如何であれ、「貸借対照表」と「総勘定元帳」を滑らかに読みあげることができずに赤っ恥じを掻いたいつかの授業。
現金出納帳を「げんきんしゅつのうちょう」と得意満面に読んだ級友へ、景浦は茫然自失に賛美の眼差しを送った。



「景浦くんは、将来どんな職に就きたいんでしたっけ」



広大無辺の海が縹色ならば白群を提示する広漠とした青天井の遠くには、やがて夕立を連れてくる立派な積乱雲が見える。

印刷インクの曖昧な香りがする書籍の頁を静かな動作で淡々とめくる音。さんさんと降り注ぐ夏の陽射しに眩いワイシャツ。
こちらに背を向けるふうにして縁側に腰掛けたわけありの同居人の青年が、至極穏やかな声でふいに景浦へ問いかけた。



ほんのりと檸檬の風味のする金魚鉢の中でたおやかに揺られ泳ぐ朱の金魚たちは、己が一体なんのためにそこへ産まれてきたのかを知らない。
ただ、気がついたころにはすでにそこに所在した。その形をなした瞬間には、とうに透明なゼリーの中へ閉じ込められていた。それだけ。
金魚鉢を模した小洒落た容器。爽やかな風味を伴う寒天ゼリー。彩りを添える一摘まみばかりの金箔。水草に見立てた甘い餡。
せっかくの美しい姿形をなしてこの世に産み出された自分が、まさか人間様に食される運命にあることなど露知らず。

緑茶の注がれたグラスの側面に満遍なくあらわれた結露は重引力に反することを知らず、その足許に小規模な水溜まりを設け、音もなく面積を拡大してゆく。
そうして、地道な浸食に成功を期した些細な水溜まりは、無造作に放られた景浦のテスト対策プリントの端くれを濡らした。



「じいさんばあさんにやさしいやくざ」



起き上がることをせず畳の上に仰向けに寝そべったまま、そっけなく退屈な返事をしておもむろに寝返りを打ち、投げ出された自分の指先を傍観する。
すると、しばらくの間を置いて、ややあってから耳に届いたさも愉快気な失笑に、景浦はそっと溜め息を吐いた。



「あのねえ、宮部さん」



グルーミーな溜息を吐いた景浦に対し、同居人は相も変わらず華奢な肩を小刻みに揺らして笑いをやり過ごさんとする。
その様子に「埒が明かん」と踏んだ景浦は、倦怠に沈んだ立っ端のある体を起こし、卓上に放り投げたテスト対策プリントと再び対峙した。
今度はシャープペンシルではなく、インクの詰め替えが可能なタイプの赤いボールペンを右手に握った。

資本等式――資産−負債=資本
貸借対照表等式――資産=負債+資本
財産法――期末資本−期首資本=当期純利益、或いは当期純損失
損益法――収益−費用=当期純利益、或いは当期純損失

ひとつずつを小さく声に出して自分の解答を見直し、単純なやり損ないを潰してゆく。

その間、寒天ゼリーで施された金魚鉢の中をやおらに揺蕩う2匹の小さな金魚は、依然として景浦の腹に納まることはない。



「私のために長生きしてくださいね、景浦くん」



ごろごろと低く唸ったのは景浦の腹の蟲でも同居人の腹の蟲でもない。清く澄み渡った晴天の最果て。
ひゅるりと生ぬるい夏の風に乗って軒下へ舞い戻ってきた燕のつがいの飛行高度は、夕立の訪れを知らせていた。

冷蔵庫のチルドルームには昨日買い置きしておいたハムがある。卵は、わざわざ隣町のスーパーまでスクーターを走らせて買いもとめた。
紅ショウガはあっても無くても支障はきたさないが、胡瓜とトマトは庭の一角に設けた菜園よりのちほど調達しよう。
したらば、ついでに茄子ももいで揚げ茄子のおひたしにしてしまえば、今日の夕飯の献立はコンプリートしたも同然だろう。

嫁要らず嫁泣かせ。むしろ嫁に貰ってほしいくらいだ。



「夕飯は冷やし中華です。異存はないですよね」

「はい。ありません」



めったに荒げられることのない穏やかな音吐に、景浦は一度だけ後ろ目に同居人を見た。
それから、グラスに注がれたままの緑茶を一気に呷ると、損益計算書、貸借対照表、仕訳帳、清算書、現金出納帳のすべてを締め切った。



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