氾濫する言葉

□  井崎が動揺する
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寸のところで危うく溺死しかけた景浦と、浜辺に打ち上げられた水くらげがならんで茹だる波打ち際。

顔面を海面にしたたかに打ちつけた景浦のために、近所の民家から氷嚢を借りに駆けた井崎と小山。
ふたりの背中を見送ったのち、景浦の顔の真横に腰を降ろした宮部は積乱雲を見上げた。



「なぜ、あんな無茶をしたんです。もし打ちどころを悪くしていたら――――」

「俺を吹っ掛けたのはアンタだ」



はるか頭上を旋回する鳶をぼんやりと目で追いつつ、中途半端に開いた口をゆっくり閉じて、噤んだ。
間髪を入れず自分の声に言葉を被せた景浦の言い分はもっともな話だ、と宮部は頷く。
そして、それと一緒に、アレを挑発であると誤解せずに説いたその裏に、景浦の目敏さを見た。

喰えない。大概のことはわりとなんでも攻略できる宮部が景浦に抱く「ただの感想」は、その一言に尽きた。



ただでさえ人口が乏しいうえに、さらに人間が減少しつつある離島。
そんなこの島の経済を支えているのは、なけなしの漁業と、美しい海を建て前にした観光資源。
まっさらな白い砂地。透明に近い海原。高い青天井。澄んだ空気と穏やかな風、磯のにおい。
気忙しい日常から逃れてくる客人の眼には物珍しく見えるそれらも、島民からすればとうに興味薄。
毎日の生活を送る中で、べつに意識をしなくても自動的に目に飛び込む、目新しさのない日頃の一部。

しかし、宮部自身は見慣れた海辺のこの絵を「見飽きた」と思ったことは一度もなかった。

深い風が吹けば海面の波は荒立ち、波打ち際の砂浜の模様を変え、珊瑚の死骸を攫う。
浅い風が吹けば雲は恰好を変形させ、居座る在所を移動し、気象すら自在に操る。
末梢的。だが、それらの他愛もない繊細たる変化のすべてが、宮部には新鮮味を帯びて見えた。
むしろ、その些細な変化にさえ気がつかずに「飽きた」とこぼす島民が、宮部には理解しがたかった。

右に旋回した途端に、瞬きをする間もなく左に旋回する鳶は、いまだに獲物を捕らえられないまま。
まるで、母艦を見失った艦上戦闘機の如く、宛ても無いままに広大な海の上を憐れに彷徨い続ける。
その途方に暮れた惨めな姿さえもが、宮部の眼には趣があるように映り込んでしまうのだった。



そんな宮部の横顔を、いまだ波打ち際に寝転ぶ景浦はかたわらにくらげを添えたまま寡黙に見る。
睨めつけるような眼差しを投げるも、取りわけて何かを言うわけでもなく、黙って瞬きをするだけ。

押しては引いて。幾度となく海岸に打ち寄せるさざ波が、景浦の足許の砂を海の中へ攫う。
陽はいまだ高く、焦がす盛夏の陽射しが真上から肌を刺し、形なす影を随所に色濃く焼きつける。
どこからともなく耳に届く蝉の大讃歌が鬱陶しい。根拠もなく、熱が余計に膨らむ気がした。



「そんなに睨まないでください。照れます」



炎天を見仰ぐことを止めた宮部のやわらかな視線が、今度は人懐こさを帯びてそこに景浦を収めた。
あきれたふうな目で一瞥をくれる景浦を余所に、目許に弧を描いて控えめにはにかんだ。

プチプチ海藻麺と野菜のサラダ。

夏の陽射しにも屈しない色白さを誇る宮部の肌と、ほどよく短い後ろ髪に絡まった海藻の切れ端。
そこに景浦がゆうべのおかずの一品を彷彿と思い浮かべたことなど、宮部は知る由もない。

和風ドレッシングよりも中華ドレッシング派。

些細な誤り。皿の中でコーンとトマトが泳ぐほどかけてしまったドレッシングに噎せかえった昨晩。
酢酸の強烈な刺激で目に涙が滲むまで咳き込んだ事柄は、景浦にとって悲痛な心覚えである。
無論、景浦自身が「あれは醜態だった」と思うそれも、宮部にとっては「知ったこっちゃない」話。

宮部には、宛てもなく海の上を彷徨う鳶の姿が還る母艦を失った艦上戦闘機のように見えた。
しかし、それが隣の景浦の眼にも同じように映ったかどうか、というのも、また然りであろう。



「景浦くんは、囲碁を打てますか」

「……かじる程度になら」

「充分です。機会があれば、是非対局願えませんか」



いい加減、これでは埒が明かないと諦めを踏んだのか、鳶はとうとう離脱をはかった。
幾許もせずにその大仰な翼で潮風を斬り、吹く風の気流に身を任せて高度を徐々に上昇させはじめた。
そうして、針路を大きく変更すると、宮部と景浦の頭上で一度旋回し、いまに山へと帰投した。

そのいっぽうで蝉の叫喚がことさら膨れあがり、ついに景浦は気鬱な溜め息を吐いて体を起こした。



「アンタ、人魚かなんかなの」

「は?」



景浦の無骨な掌が宮部のやわらかな髪を梳いて、線の細いそれに心許無く絡まった萌黄を取り除いた。

厭味に嗤ったのは、物憂いな眼で唇を攣る景浦だったか。あるいは、無愛想なウミネコのほうか。
暫時。宮部の白い肌が曖昧な朱に染まり、おって頬が熟れたころには顔が俯けられていた。

生々しい。

手持無沙汰につまみあげられた草臥れた水くらげは、若干の湿りを帯びた萌黄とともに海へ還る。
手遅れだったか否か。なんぼのもんじゃい。宮部にも、景浦にも、それは関心の薄い事象であった。



「お堅い喋りのわりに、間抜けなんデスネ。宮部サン」



伏せた睫毛を震わせて膝を抱える宮部を横目に、景浦は手前に広がる雄大な海に目をやった。





「…………」



露骨に変じた、宮部と景浦を囲う雰囲気。
その様子を、息を切らしてせっかく戻ってきた井崎が、遠目に怪訝な顔で寡黙に見つめていた。
あまつさえ、そんな井崎に憂愁の眼差しをひたむきに注ぐ小山の心理を、はたして誰が解けただろう。



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