長編

□≪竜と右目の夢 四≫
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月の青白い夜だった。

細る雲間から月光が漏れて美しく、ひんやりとした空気に肌が冷えた。
ぽつぽつと雨が地面にしみこんでいくのを部屋から見て、「今日は温かいほうか」と思った


梵天丸様の機嫌が思わしくない
理由は明白だ。

いつも欠かさず現れていたあの女が今日はやってこなかったのだ

自分の気持ちを露呈してしまったからではないかと泣きじゃくり、疲れて眠ってしまった梵天丸様に、もう一枚布団をと思い中庭を通る廊下を通っているときだった


ひときわ強い雨が地面を叩く。
泥を巻き上げて廊下の板張りにそれが跳ねて、忌々しく中庭を見た



誰かが立ち尽くしている
見間違えもしない短く跳ねた髪の毛は、雨に濡れそぼり本来の質量を失わせていた。


「…お前」


来ていたのなら何故梵天丸様に会わなかった

そう言葉を続けることは不可能だった。


俺の声に振り向いた女の顔は、雨ではない別の水筋を作っていた。
うつろな瞳は、「私は誰」と俺に正体を請うたあの瞳に酷似していて、足がすくんだ

黒い装束は肌にぴたりと張り付いて、その小柄な身体を際立たせた。
丸みを帯びた曲線にいつも以上に女を感じても、この胸をざわつかせる由縁はそんな下卑た理由ではない。


いつものような温度を
感じない


気が付けば中庭へ駆け出していた。
激しい勢いで落ちてくる雨粒が痛いくらいだった。
いつからここでそうしていたのか分からない女に、無意識で腕を伸ばす。
手のひらは真っ白く色を失って、氷かと間違うほどに冷え切っていた。


「…お前、は」
「私は」


ここへ来て初めて女が口を開いた。
掠れていて、頼りなく小さい声は、けらけらと笑ったり、うるさく騒いだりする女と同一人物だとはとうてい思えなかった。


「私はもう精霊なんかじゃ、ない」


ゆらと揺らめく青い瞳が、一瞬だけ感情を覗かせた。
それは悲しみのような気がしたが、それを汲み取ってやれる時間も与えてはくれない程間髪をいれずに女は続ける


「ううん。最初から私は精霊なんかじゃなかった。こんな私でも誰かに愛される。必要とされるって思いたくて偽善を振りまいてただけなんだ。でも、そんな偽モノの力さえ失って、もう私はただの」
「ごんべ!」
「やめてよ!」


女の怒号は悲痛だったが、雨音にかき消された。
きっと、目の前にいる俺以外には届かなかったであろう、叫び


「今更名前なんか、呼ばないで、私に優しくなんか、しないで。求められても返すことはできない。もう梵天丸に合わす顔なんかないよ。」
「……癒しの力を失ったのか」
「………っ!」


女は、俺の脇差の小太刀を引き抜いて、自身の首にあてがった。
そのまま力を入れて滑らせれば、女は絶命するだろう。

しかし、その刃先を握り締めて馬鹿な真似をさせまいと止めると、女は嗚咽を漏らしてぬかるんだ地面に膝を付いた


「私はもう、《私の中の彼》のために生きるって、そう決めたの。だからもう、誰にも優しくなんか、できない。依存しちゃいけないの!でも生きてたら思い出よりも、生身の依存が欲しくなる!現実でも死んじゃったなら、夢の中まで死なせてよ!」


叫ぶ女の胸倉を掴んだ、
俺の剣幕に驚く様子も見せなかった女に、苛立ちと良く似た感情が支配していく
この女は       馬鹿か。


「…んっ!」


女の青く染まった唇に、自分の唇を噛み付くように重ねた。
驚愕に目を見開いた女は、一瞬腕の力をなくしたが、直ぐに身をよじった。

だが、力を使えなくなったというのは嘘ではないらしく、初対面で俺を圧倒したあの力を行使することはなかった。

唇から漏れ出す吐息が生暖かく、外気に触れて白く霧を吐き出した。
口吸いなど知らぬ俺は、ただ乱暴に、何度も何度もそのうるさい口を塞ぐだけだった。


「や、こじゅうろ」
「お前が死んだら困るんだよ」
「聞こえなかったの、私はもう」
「精霊であろうと、なかろうと。今更ここから消えるなんざ許さねぇ」
「こじゅ」
「黙れ」


梵天丸様はこの女を必要としている。
この女も梵天丸様を愛してくれている
母の愛を知らぬあのお方に、《姉》を教えた女の力は、癒しの力が理由ではない

これは梵天丸様のためなのだと言い聞かせながら、どうして俺はこの女の唇を貪っているのかが自分でも理解できなかった。

吐息に混じる、酸素を求める喘ぎが鼓膜を震わせるたびに、ぞわりと鳥肌が立った。


「死ぬな。生きろ。」
「はぁ…っん」
「ずっとここに居ろ」


それは誰のために?
聞くまでもない疑問を自分にぶつけてみても、答えが容易には出て来なかった。

唇と頬が桃色に染まった女の表情を両の目で捉えたとき、こみあげる訳のわからない感情に堪え切れなくなり、背中をかきむしるように抱きしめれば、女は観念したようにだらりと腕を下ろした


「どうして…」


女の問いかけに答えることはできなかった。そんなもの、俺が教えてほしいくらいだったからだ。


「……私は、揺らがない…もう力は…使えない」
「それでもいい。梵天丸様がお前を愛したのはお前であってその力じゃねぇ」
「……じゃあなんで、小十郎は私に………」
「……………てめぇが黙らねえから口を塞いだだけだ」
「…あは、なにそれ」


ようやく力なく笑った女を支えながら屋敷に入った。
滴る水が板張りを濡らしていく。俺の唾液でぬらりと光る女の唇が艶かしくて、ずぐりと心の臓が疼いたのを感じた





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雨の中

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