きこえますか?

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気がついたらあまり入ってはいけない路地に入りこんでいた。

キャバクラやホスト、ラブホテルが点在するこの場所は、わりと治安の良いこの町の中でも特に危険区域とされていて女性一人でうろつくのは控えなさいと不動産のおじちゃんに言われていたことを今更になって思い出した。が、後の祭りと言う奴だ。ホストだか客だかよくわからない身なりの男の人が私に話しかけている。数人がかりで。私の耳には要らない情報ばかりがキンキン響いて入り込んで来て目眩がする。

喉の奥から粘ついた音、あわよくば関係を持とうと言う下衆い響き。奥の方で一人の男が近くのホテルの名前を呟いた。ああもうだめだ。私は同じ道を辿るんだそうやって。新しい地に引っ越してまでやり直そうとしたのに、なんてあっけないの…
大人しく目を閉じて降参の意を示すと、男たちはさらに嬉しそうな声を上げた。もうどうにでもなればいい。

しかし、男の衣擦れの音の隙間に誰かが走って駆け寄る音を聞き分けて目を開く。その瞬間私の手首は何者かに掴まれて、鉛のように重かった足は駆け出した。
いきなり連れ出された私を追いかけようともせず、チッと小さな舌打ちを零して新たなターゲットを探すつもりのようだった。私を引っ張る誰かの後ろ頭が涙でぼやけてよく見えない。こうやって助け出してくれる人があの日の私に必要だったのではないか。
でなければ、今私はこんな人間ではなかったのではないか。溢れ出る涙が止まらなくて、私はただ声を押し殺して泣くばかりだった。


_________

開けた場所に出て、大通りを抜けた私のマンションにほど近い場所まで出ると、私の手を引いていた誰かはそっと手を離して私の方に向き直った。


「…大丈夫か?名前ちゃん…」
「……」

声を出すのが恥ずかしくて頷くと、そっか、と優しい声で私を落ち着かせてくれたのはおそ松さんだった。

弟さんにあんなに失礼なことを言った私を、ずっと走って追いかけてくれていたんだ。息が切れているし、額に汗がじっとりと浮かんでいて髪が張り付いてしまっている。
辺りが暗くなって来た。私の目はずっとぼやけたままで、それは弱視のせいでもあるし涙のせいでもあって、おそ松さんの優しく私を見下ろす視線が無償にくすぐったくて、自分のつま先を見つめることしかできなかった。


「俺んちさぁ、兄弟めっちゃいるんだよね。六つ子なの。すごくない?」


唐突で脈絡もない話に思わず顔を上げると、がっしりと頬を掴まれた。
おそ松さんはぐっと顔を近づけて私にしか聞こえない声でゆっくりと喋り出した


「あいつらほんとわけわかんなくてさ、みんな好き勝手やりながら怒ったり怒られたりしてんの。まあ俺もなんだけど。クズだし正直ダメな大人ばっかだけど、俺結構楽しいんだよねあいつらといるのがさ。トド松は確かに女ったらしなんだけど、ああで意外と普通にダメなとこも他にあって、別にフォローしてるわけじゃないんだぜ。んーと、何が言いたいかっつーとさ。そんなやつらの長男だから、俺わりと誰が何を考えてるとか何と無くわかるんだ。」


おそ松さんのまつげが瞬きするたび私のまつげを揺さぶって、私はひどくドキドキしていた。おそ松さんの私を見る目があまりに優しくて。


「何があったかとか、何でトド松にあんなこと言ったかとか、女の子には色々あるんだろうな。俺根掘り葉掘り聞かないよ。そーいうのめんどくさいし。ただ名前ちゃんは笑ってた方が俺好きだな。だって、かっ………か、かわいい、から。」


おそ松さんはそう言うと、左手で私の前髪を不器用に横に流すと、ゆっくりとした動きで私の額に口付けた。その瞬間一際大きい心臓の鼓動が身体中を震わせて、私は思わずあんぐりと口を開けたままおそ松さんを見つめた。おそ松さんの唇は震えていて、私の頬に添えた右手はじんわりと手汗をにじませた。

長い長い時間のように感じたこの瞬間から現実に引き戻したのは、「ママーあの人たちちゅーしてる!」という子供の声で、それが耳に届くとおそ松さんは私から飛びのいてしまった。そしてそのまま駆け出して行ってしまった。


さっきまでのネガティブな感情はどこへ溶けて消えたのか。ただ熱く熱を持った額に手を当てて、私はつぶやくしかなかったのだ。彼の名前を



「一松、さん…?」


なんでおそ松さん
一松さんと同じ顔してんの?





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