amnesia(long)

□01>日常
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トイレに居心地の悪さを感じ始めて、
喫煙ルームに行こう...この時間ならまだ
人はいないハズだと思った時、耳元で
鳴る軽やかな音楽がプツリと切れた。

「ルシータ本店セールスマネージャーの
及川です、お待たせしてすみません」

久々に聴いた声にホッと肩が降りる。
あの担当者...俺の名前伝えてないのか。
心無しか及川の声は苛立ちを含んでいる。
俺は溜め息をついてボケと呟いた。

「俺だよクソ川」
「えっ、あ...えっと」

ふと電話越しに、昔の及川が戻った。
事情はちゃんと分かっている。
俺がそっちに掛けたのはオフィスの電話。
ということは及川はオフィス内でこの
電話を取っている訳で世間話をする余裕も
ないのだろう...だから焦っているのだ。

「1回この電話切ってスマホで掛け直せ」
「あ、は、はい...分かりました」

周りに怪しまれないよう敬語を使って
いるのだろうけど、俺はそれがおかしい。
まぁそれが当たり前なのだけれど。

丁寧な言葉で電話を切られ、俺がトイレから
喫煙ルームに移動し終えると電話が来た。
予想通り、人は誰もいないみたいだ。
応答ボタンを押して耳に当てる。

「岩ちゃん、どしたの何かあった?!」

電話越しの及川は焦っているようだ。
俺はキョトンとして合点いった。
コイツ...俺が困ってると思ってんのか。
逆に心配して掛けただけなんだけどな。

「ちげーよ、お前さスマホに電話掛けても
出やしねぇだろ、だから会社に掛けた。
大丈夫なのかお前、体調崩してねぇか?」

すると、電話越しに安堵の息が聴こえた。

「岩ちゃんに何かあったかと思ってさ
ほんとに心配したんだよ、よかったー...」

向こうの声が微かに反響しているのを聴くと
おそらくあっちはトイレにいるんだろう。
俺はポケットから煙草を取り出し咥える。

「忙しくてさ...連絡出来なくてゴメンね」
「最近どうだ、大丈夫か?」

うん...と聴こえる声は疲れきっている。
昔のような明るさも持ち合わせてはいるが
まったく前の通りという訳では無さそうだ。
コイツも今じゃいわゆる立派な社畜か。

「今日は残業何時までだ」
「んー、早くても23時くらいかな」

俺は思わずむせ返った。
早くて23時まで残業って何だよ。
向こうから心配する声が聴こえる。

「今日お前ん家行くわ...ちゃんと食えや」
「えっ、ご飯作っててくれるの?!」

仕方がない...俺から行動を起こさないと
いつコイツが潰れるかも分からん。
...だとか思う当たり、俺は及川に甘いな。
今日、俺は20時には上がれるし。
スーパー寄って食材でも買ってくか。

「何か今日頑張れそう!!」
「おう、無理しねぇ程度にな」

お互いに通話を切り合った頃には、
煙草はすっかり短くなっていた。
俺はもう1本吸い終えてから喫煙ルーム
を出ると、ちょうど上司に鉢合わせて
少し気まずくオフィスに戻った。
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