amnesia(long)

□03>はじめまして
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「今日は遅くなって悪かったな、及川」
「そんな...いいよ、岩泉さん」


及川が一般病棟に移って1週間が経った。
容態も安定しているし、怪我は打撲だけ。
記憶喪失以外は何の問題もない。

“本当に...徹を任せてもいいのかい?”
“及川と一緒にいなきゃいけない気がして”

そんな会話を何度も及川の両親とした。
結果、両親は数日前に宮城へ帰った。
本来なら宮城の病院に転院して、実家で
暮らしていくはずだったんだが...

“俺と一緒にいて”

あの夢で見た及川を忘れられなかった。
だから、無理にでも及川といたかった。


「その、岩泉さんっての、やめよーや」

俺はネクタイを緩めながら、ベッドの横
に置いてあった椅子に腰掛ける。
腕時計が指すのは午後8時半すぎ。
及川が一般病棟に移ってからは仕事終わり
毎日ここに訪れては話をしている。

「じゃあ俺は何て呼んでたの?」
「岩ちゃん、だな」

及川がパチパチと何度か瞬きをした。
...岩泉さんじゃ調子狂うんだよな。
こいつ中身は変わっても外見まんまだし。

「ほれ言ってみ、岩ちゃん」
「...岩ちゃん」

ニッと俺が笑うと徹も少しだけ笑った。


この1週間で色々とあったもんだ。
俺が一緒に住む人だって言うと、及川は
露骨に不安そうな顔を向けてきたし、
そもそも最初は敬語からスタートだった。
花巻も、それ見て大爆笑だったな...

遅れて来た松川も最初は驚いてたし、
落ち込んでもいたけど、宮城に帰る頃には
「こっちの及川も案外いいかもな」
...とか何とか抜かしていやがったし。

相変わらず、誰のことも思い出さない。
自分がバレーをやっていたことも。

試しにボールも渡してみたが無駄だった。
今や、バレー日本代表になってる影山
を雑誌で見せても何の反応もしなかった。

でもまぁ...そんなのは分かってたことだ。
今では少しずつ心を開いてくれてる。
俺は及川の唯一の家族みたいなモンだし。
...いや、両親は健在だけれども。

もし記憶が戻らなくても、いずれは前
みたいに馬鹿騒ぎしたりとか何とか。


「ねぇ岩ちゃんってば?」
「...ん、あ、何だ?」

及川が心配そうにこちらを覗きこむ。
いかん、ついぼーっとしてた。
にしても外見はホント変わらないな。
岩ちゃんと呼ばせるのは間違いだったか。

「俺を養うとか、ホントに負担じゃない?」

俺はポカンと口を開けた。
そしてクックッと喉の奥で静かに笑う。
及川のくせに何を心配してんだか。

「別にいいっつーの、ただ帰りは遅いぞ。
それにお前にとっちゃ俺は知らん奴かも
しれんが、俺にとってのお前は今も昔も
変わらない大切な幼馴染みだからな」

ぺしっとデコピンすると及川が笑う。
久々に見た笑顔に心が揺れた。
...確かに、こんな風に笑う奴だったな。

もうずっとこんな顔見てなかった気がする。

俺は腕時計に目をやった。
ちょうど9時になる頃か...面会終了だな。
椅子から立ち上がると及川が見上げる。

「ゆっくり出来なくてすまんかったな」
「んーん、仕事終わりにありがとね」

俺が病室を出る間際にふと振り返ると、
及川が微かに笑いながら手を振る。
俺もヒラッと手を振るとドアを閉めた。
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