七宝(頂き物)

□【碧の渦。後編】
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悔しい。
哀しい。
淋しい。

水月はふと緩めると零れ落ちそうになる涙をぐっ、と押し留めながら廊下をひたすら歩んだ。
方淵とは敵対する家柄の男子として、相容れられないものだとわかりきっていた。

―――わかりきっていた、そのはずだったのに。


何故こんなにも胸が締め付けられる。



ふらふらと王宮内の隅にある、先々代の王が作らせたという池の傍の木立まで来た。王宮内の整備されたものとは言え、かなり広い池の水面は日の光を浴びきらきらと輝いていて、それを囲うようにある木立には小鳥の囀りが響き渡る。
しかし、どれも水月のその瞳には何も写ってはいなかった。目に写るのは…自分とは相容れないと言い放ったその背中のみ。

「―――私の…独りよがりだったんだな…」

少しでも彼とわかりあえてた、と思っていた事が。
それが裏切られた、という事実が。
こんなにも、こんなにも…辛いだなんて。

ほろり、と零れた涙が衣の袖を濡らす。そこだけ色濃く滲んだ場所に目を凝らした。―――いや、凝らすように目頭に力を込めないと、これ以上堰を切ったように涙が溢れ出すのを阻止出来ないと思ったから。
だから―――気付いていなかったのだ。
背後の気配に。


「―――っ!!」

突然背中からのし掛かられた。重たい身体と耳元に掛かる生暖かい吐息に背筋が粟立つ。

「な…っ、は、離し…っ!」
「水月殿…っ!水げ、つ殿…!!」

この声は。

以前から聞いた事のある声に凍りついた。何かにつけて言い寄られて、かわしていた。それが徐々に酷くなってきたような気がして。出来るだけ一人にならぬよう、行動していたつもりだったのに…。
不覚だった。

「離していただけませんか」
「貴方が―――いけないんだ」

男の声が急に低いものに変わる―――。

「貴方が…私の気持ちを知っているのに」
「ですから、それは」
「私を…排除しようとするから…」
「そんなつもりは…ただ、」
「貴方が私のものにならないならば―――いっそ…」

いっそ…何だ、と声を掛けようとした瞬間。
水月の身体は冷たい水の中へと突き落とされた。








水月を探していた方淵は、突如響いた水音に慌ててそちらへと向かった。
木立を通り抜け人工的に作られた池の淵に人影を見つけ、ほっと息を吐いた。
しかし、そこにいたのは…

「―――貴様…何をして、」

他部署の官吏に眉を潜め、声を掛けた時再び響いた水音に池へ目を向ける。…そこには。

「氾…っ!」

藻掻く水月が浮き沈みを繰り返し、苦しそうに助けを求めている。

「氾水月…っ!」

なんにせよ水月を救う事の方が先決。方淵はそのまま水中に飛び込むと水月の方に向かって泳ぐ。水を吸った衣が思いの外重く、
纏わりつく。

「く…っ、手を…っ!」
「ほ…えん…」

水月が手を伸ばし、方淵もその手を掴もうとするがなかなかその手を捕らえられない。

「す、いげ…っ!」

何度か掴もうとしたものの、寸でのところで捕らえられず、再び手を伸ばしたその時。
ついに力が抜けた水月が沈んだ。

「水月!!!」

凍るような冷たい痺れが身体を貫く。
水月がこの世に居なくなるかもしれないというその世界を垣間見て―――とうとう方淵は腹を括った。

死なせるものか。

空気を肺一杯に吸い込むと水月を追い、水中に潜る。
辺りを見回すと遥か下にぼんやりと沈む白い影。方淵は思い切り手と足で水を蹴り、なんとか彼に追い付く。その目は閉じられ…ただ水に身体を任せていた。
漂うその細い手首を掴み、引き寄せた時。微かに瞼が開き瞳が覗く。
その目が方淵を認め。
微笑んだ。

―――――!

くっ、と眉間に皺を寄せた方淵は…。水月の頭の後ろを引き寄せ口づける。
そして命の元となる息を吹き込んだ。










なんとか水面まで引き揚げ、水月に新鮮な空気を吸わせる。けほけほと咳き込むその背中を擦り、方淵は辺りを見回した。

―――逃げたか。

予想はしていたから後程陛下に進言する為に顔はしっかりと覚えておいた。氾の長子にこのような行いをしたのだから、氾家をも敵に回した事は間違いないだろう。
池の淵まで水月を誘導し引き揚げる。荒い息をつきながらゆっくりと自分を見上げる彼に胸が高鳴る。

「…あ、あり…がと…」

ごほごほと咳き込む水月の背を叩く。

「無理するな。水も飲んだんだろう」
「いきなり…背、後から…っ」
「突き落とされたのか」

小さく頷く頭に、いつもはさらさらとした髪があらゆる場所に纏わりつく。
その白い頬に。首筋に。
どきりとする程扇情的で、方淵は慌てて目を逸らした。それを見て、水月が哀しそうに顔を歪めた事など知らずに。

「と、とにかく着替えを「方…淵は、私…が嫌、い…?」

不意に問いかけられ、方淵は驚いて水月を見た。そして濡れた瞳と出会う。

「な、何言っ」
「私、は。方淵が好きだよ」

―――ああ。もうそんな目で見るな。

そのような…恋い焦がれるような目で。
真っ直ぐな―――視線で。

「―――水月」
「道ならぬ想いだと…わかってる」
「水月」
「で、でも、私は…」
「氾水月!聞け!!」

びくりと怒号に身を縮めた水月に、方淵はちっ、と舌打ちする。彼は立ち上がると、無理矢理自分より僅かに細い手首を掴み、歩き出した。

「ほ、方淵…っ」

無言を貫く方淵に、水月が恐る恐る声を掛けるが歩みを止める事はない。

「ちょ、ねぇ、着替えを…」

ぴたりと歩みが止まり。水月が方淵の顔を覗き込もうとしたその瞬間。
固いものを背中に押し付けられた。
気がつくとそこは人目のつかない四阿で。壁に背中を押し付けられていた。

「―――貴様は」
「…え?」

低く零れた声に首を傾げる。
目の前に佇む方淵からも水が滴り、一刻も早く着替えなければお互い風邪をひいてしまうだろうという事は明確なのに。
目が離せない。
目の前の男に―――囚われる。

「わかって…言っているのか」

顔の両側に手を付かれ、囲われる。
これでもう…

「全てを白日の元に晒したのは貴様だ」
「…ほ、え…っ」
「責任は取って貰う」

すい…っと顔を寄せ、その美しい形の耳元に息を吹き掛ける。小さく身震いした身体にほくそ笑みながら囁いた。

―――お前自身でな。

「〜〜〜〜〜!!!」

耳を押さえ、へなへなとその場にへたり込む。意地悪な顔で見下ろす方淵を水月は恨めしそうに見上げた。

「そんな顔をしても欲しがっているように見えるだけだ」
「…っ、何を…!」

そこでそんな風に言わなければよかったと、水月はすぐに後悔する。
方淵が、にやりと笑ってすいっ、と己の唇を人差し指でなぞった。
その光景があまりにも…艶やかで。一瞬見とれた水月は、次にはっ、と顔を真っ赤に染める。
水の中で口づけられたあの薄い唇の感触を…思い出してしまったから。

慌てて唇を両手で押さえ、じろりと見上げる水月を、方淵は楽しげに見下ろし笑う。

「―――早く着替えて来い」
「―――わかっ…た」
「逃げるなよ」

そう言い捨て、背を向けた方淵の後ろ姿を見送る。

ああ…なんて自分が恋した男は。

「―――意地が悪い…」

暫く、腰が抜けて動けなかった水月が翌日以降熱を出して暫く床に臥せり。

記名のない御見舞い品が毎日のように贈られてきて、紅珠に新たな話の種を提供してしまうのはまた別のお話―――。










おしまい。

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