□甘い棘を残して
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「…イドルフリートさん!」

「ん?ああ君か。どうしたんだいそんなに急いで」

「逆になんでそんなに落ち着いてるんですか!?わ、私は!イドルフリートさんがこの町から出て行くって聞いたから、町中駆けずり回ったんですからね!」

「…それはご苦労だったね?」




イドルフリート・エーレンベルク。一週間ほど前にこの町に来た船乗りで、よくは知らないがその船の船長が父と旧知の仲らしい。そんな良くわからない縁で知り合った男は白い肌に風に靡く美しい金髪、おまけに顔立ちも整っていて見目はとても美しい。最初は純粋にそこに惹かれたけれどこの一週間、顔を合わせる内に彼の内面をも垣間見ることが出来るようになった。

最も、外面は飄々としていて掴み所がないため私が知り得ていることはごくわずかだ。お酒は好きだけど決して強くはないこと、若く見えるけれど私より軽く10以上は年上なこと、女性の胸をこよなく愛していること、そして毎晩違う女の人とどこかに消えていくこと。彼に仄かに惹かれていることを自覚するのは決まって夜の闇に消えていく彼の後ろ姿を見る時だった。これが初恋か。呑気にそう思ったりしていたのに、彼はもう行ってしまうなんて。




「…本当なんですか?」

「ふむ、明日の朝に出航予定だな。」

「嬉しそうですね」

「私の居場所は海だからね。」





嬉々として言い切った彼の表情は一点の曇りもなく清々しい。この町のどこにも未練などはない、輝く瞳がそう語っている。悲しいのは残される私のみだ。彼は船乗りなのだから海にいることが自然なのに、それなのにずっと傍にいたいなどと思った自分が浅ましくて嫌になる。





「もうこの町には来ないんですか?これで、お別れですか?」

「それは私にもわからない。必ずなんて言葉は簡単には使えないだろう」

「それは、…そうですけど…。」

「まあ、楽しみにしてくれ給え。もしかしたら数年先、またこの町に寄ることがないとも言い切れない」




ぽん、と頭に軽く手を置かれながら聞いた彼の言葉は良くも悪くも真っ直ぐだ。好きな人の手に触れられているのは嬉しいけれど、この手がいつも別の、私よりずっと大人な女性の体を引き寄せているのだと思うと少しだけ嫌悪を抱く。酷い嫉妬だ。それに結局これが彼との最後の会話になる可能性だって充分に有り得ることは事実。

焦った私は衝撃と緊張と嫉妬で回らなくなった脳で必死に考えた。一週間分の恋慕は焦燥感によって渦巻いて溢れ出してとんでもないことになっている。どうにか初恋の相手を繋ぎとめたい、それが無理ならばせめて多少強引でも構わないからほんの少しだけでも私だけを見て消えない記憶になってほしい。気がつくと私は言葉を発していた。




「…なら、今晩は私を抱いてくれますか?」

「……え?」

「イドルフリートさんは、もう明日いなくなるんでしょう?心配しなくても後腐れなんてありません、それにー…」

「すまない無理だ、私は君の胸には欲情しない」




まるで諭すように柔らかい声色で言い放たれたそれは通りすがりの人が聞いたら白い目で見られた後に話のネタにされること請け合いの言葉だった。思わず自分の胸元に視線を落としてみる。膨らみがないわけではないが、なるほど彼がいつも相手に選ぶ女性達とは全く勝負にならない。




「それに、…私が言うのもなんだが自分を安売りするのは止し給え。私が接している限りだが君は低脳なヤツらとは違う」

「…彼女達は、低脳な女性なんですか?」

「一夜限りの付き合いだ、そんなものを見極める必要もない。…君には随分と世話になった、想ってくれていたことに気付かなくてすまなかったが、私はきっと忘れないだろう!…だから君は、私のことなど忘れて幸せに生きなさい」




眩しい程の笑顔。ときめいてしまう自分が悔しい。だけど彼は私の気持ちに向き合ってくれた。こんなことを言っておいて、彼は多分いつか私を忘れるだろう。そしてその日は意外とはやく訪れることになるのだろう。だって彼はこれから焦がれて止まない海へと戻るのだ。思い出す暇なんてないだろうから、少しずつ消えていくだけ。

彼から見たら私はきっと自分に憧憬を抱いた沢山の少女の内の一人でしかないのだろう。大人は嘘つきだ。甘い棘のように切ない痛みを生む嘘はタチが悪い。




「…イドルフリートさん」

「ん?」

「好き、です。」

「光栄だよ、ありがとう」

「っ…絶対に!後悔させてあげますからね!何年後かにものすごく良い女になって、素敵な恋人を作るんです。その時抱かせてなんて言っても遅いんですよ」



とびっきりの笑顔を作れば一瞬ぽかんとした表情が見えて、その後何が面白いのか彼は手を叩いて笑い出す。驚くほど呆気ない、どこか甘ったるい失恋だ。彼につられて私もほんの少しだけ笑う。鼻の奥がツンとした気がした。




「きっと私は後悔するだろうね、君は良い女になる、ならないわけがない」

「…ありがとうございます。」

「そうだ、今晩は航海に備えて一人でゆっくり寝ることにするよ。だから、この町で最後に触れたのは君だということになるな…」





ああ、ずるい。きっとこの人は今何を言えば私が喜ぶかわかっているのだろう。何もかもわかった上でそう言って、何もかもわからない振りで綺麗に笑うのだ。なんてずるい大人。だけどそんな所も好きだ。この人がいなくなってもしばらく私は彼がこの町に残した残像を見て心を痛める羽目になるのだろう。そして彼のことを淡い思い出として懐かしむ時、「良い女」に一歩近付ける、そんな気がする。だから、それまでは。




「…さようなら、イドルフリートさん」

「ああ、…元気でいてくれ給え」




小さく小さく「ありがとうございました」と呟いて、ひらひらと手を振る彼とは違う方向に歩いていく。潔いのが大人だと言うのなら、私はまだ子供のままで構わない。次から次へと溢れ出す涙を彼に見られなかったのはせめてもの救いで、ただの強がりだ。




(甘い棘を残して)





この恋を、私は忘れない。



END


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