豊玉発句集

□人の世のものとは見えず梅の花
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 梅の蕾が膨らみ始めた。日野の春は少しだけ江戸より遅い。こっちで蕾が膨らんだということは、江戸ではもう四分咲き程だろう。

 歳三の許嫁、お琴は大久保村に住んでいる。家には、一本の梅の木があり、それはたいそう立派なものだった。

 あの梅は紅だろうか、白だろうか?

 歳三は、考え始めたら気になって仕方がない。枝振りが見事で、垣根から見える存在感がある。初めてお琴に会ったとき、彼女よりも梅の枝に見入っていたのは、かれこれ三年前だ。
 歳三にとって、お琴が許嫁であることは、少々億劫なものだった。今は薬売りの傍ら剣術修行に明け暮れているが、いつかは武士になって世の中のために働きたい。そのために所帯を持ってしまうのは、みすみす機会を逃すことになるのではという懸念があった。

 そうは言っても、兄の顔も立てねばならない。そんな現実離れした理由で断っても、向こう様にも角が立つ。それならば、しばらく曖昧にしておいて、すぐ所帯を持たず許嫁でいてもらおうと折衷案で合意した。
 合意したまま月日は過ぎて、兄と顔を合わせる度にお琴の話が持ち上がる。このまま放っておくのもままならないような気になるものの、ここまでくるとどう切り出すべきかも悩んでいた。
 頭で悩んでも何も始まらないというのは、経験上よく判っているし、歳三の性分でもない。

 とにかく今は、なにはともあれ梅の花である。
 俳句をたしなむ歳三にとって、綻びた蕾が紅か白かは重要な問題だ。枝振りを思い出すと、鮮やかに咲き誇る梅が紅白交互に浮かんでくる。
 気になり出したら落ち着かない。だったらもう、見に行くしかない。

「ちょっくら江戸へ行って来らぁ」

 簡単に支度を整えて、草鞋を履きながら、実家に遊びに来ていた姉に声をかける。

「一度出ちまうとなかなか帰って来ないんだから。田植え仕度までには帰って来るんだよ」

 ずいぶん長い期間であるが、そう言われるのも仕方がない。一度家を出ると、江戸の試衛館道場に泊まり込み、なかなか帰ってこないのが常である。

「判ってるって。じゃ、行って来るよ」

 歳三の頭の中はすでに、梅のことで一杯だった。

 果たして紅か、白か──。

 許嫁の約束を交わしてから三年。歳三の武士になりたい願望はまだ残っているものの、少しは現実が見え始めたのも事実である。このままの生活が続くのであれば、お琴と所帯をもつのも悪くない。
 お琴は内藤新宿にほど近い大久保村で、父の三味線店を手伝いながら、神楽坂や新宿の芸者相手に三味線の師匠をしている。三味線屋になるのはいささか気がひけるが、お琴を迎えることには何も問題がない。江戸の道場には近くなるし、甲州街道の出発点である内藤新宿は、歳三にとって遊び場である。
 なによりも、そろそろ男として一家の主になっても良い年頃だ。

『よし、もしお琴さんの梅が白だったら、覚悟を決めて所帯を持とう……。これもきっと何かの縁だ』

 そんなことがチラチラと頭をかすめながら、甲州街道を東に進んでいく。
 出発が遅かったので、途中で日が暮れてきた。彼岸前だからまだまだ日暮れも早い。このまま進んでもいいが、急ぐ旅でもないのでどこかで宿をとることにした。
 神社の境内でゴロ寝をするにはまだ寒い。許嫁の家に行くという目的の途中で不謹慎だが、ここはお決まりの飯盛女の所で温まっていこう。

 そう考えて、馴染みの店をくぐるといつものように馴染みの女が出迎えてくれた。
 江戸の郭に比べたら見劣りする女ばかりである。そんな中でも何人かマシなのがいる。今日出迎えてくれた女もそんな一人だ。もっとも年に二回会えば多い方だが。

 飯を終えて床に入る前、馴染みの飯盛女からつまらないことを聞いた。なんでも所帯を持つことにしたそうだ。相手は客ではない。村の祭で知り合った若者だという。別にそれほど思い入れのある女ではないが、そんな話をされたら気が萎えた。
 女とはお琴と約束を交わす以前からの付き合いだった。吉原の遊びを覚える前でもある。
 馴染みの女の暮らしが変わるように、歳三も変わる頃なのかもしれない。いつまでも夢物語のために生きるのではなく、そろそろ現実に目を向けるべきなのだろうか。
 女は、ささやかだけど幸せだと言った。

「これからは、もうこんなことをしなくて済むし。普通に子供を生んで、このままこの土地に骨を埋めるんだろうなぁ」

 付き合いの長さから、歳三が客であることを忘れて身の上を話す。歳三も男女の情よりも人としてこの女との付き合いを重ねていたので、布団の上にゴロ寝をしながら気楽に聞いた。
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