サルビアのきもち
□十七
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鬱蒼と生い茂る森を切り裂く様に疾走する白い影。
弾丸の如き速さでその影を追いかける男。
やがて白い影を射程内に入れた男は大きく息を吸い込むと叫んだ。
「待てよっ!何で逃げんだよ!」
だが白い影…逃げる女は振り向きもしなければその速度を弛める事も無く走り続ける。
しかしいかに地の利が有ると言えど若い男の足に敵うはずなどなく、やがて尾の様にたなびく着物の裾を掴まれた女はバランスを崩して転倒した。
自身に襲いかかるであろう痛みを覚悟してギュッと目を瞑った女、ユキはしかしながら一向にその痛みが訪れない事、そして自身の身体にかかる重みを不思議に思い恐る恐るその目を開けた。
「……むぐっ!」
ぷはっ!
そう息を漏らしながら謎の肉塊から顔を上げたエースは、咄嗟に抱きしめて庇った女が無事かどうかを確かめようと視線を動かした。
そしていつの間にかどこかに消えてしまった面の無い自分の顔、その少し上に女の顔が有るのを確認したのだが、目の前に鎮座する謎の二つの肉塊が邪魔をしてよく見えない。
それを煩わしく思ったエースはその肉塊を退かそうと手を着いた。
……ふにっ。
「………あ?なんだ、これ。」
そう呟きながら再び肉塊の向こうの女の顔を伺えば、ちょうど雲の切れ間から覗いた月光に照されて、エースにとっては見慣れた、姉そっくりの顔の彼女がまるで熟れた林檎の様に真っ赤な顔をしているのに気が付いた。
ドンッ!
「うわっ!」
途端、エースは彼女に突き飛ばされてその場に尻餅を着いたが、しかしここで逃がしてなるものかと無意識に先ほど触れた肉塊を掴んだ。
……むにっ。
「………メロン?」
そう、ちょうどそんな感じの大きさだ。
そんな事を考えながら、彼女の姉そっくりの顔を見詰めながら二度、三度とその手を動かすエース。
「〜〜〜〜っ!!」
パァァ……ンッ!!
闇夜の森に、乾いた音が響き渡った。
からりころりと下駄を鳴らして石畳を歩む美貌の烏天狗に、ナツメを連れ去ろうとしていた老人達は戸惑いを露に顔を見合せている。
その一瞬の隙をついて掴まれた腕を振り払った彼女はすぐさま烏天狗もといイゾウの元へと駆け寄った。
イゾウはナツメをその背に庇う様に後ろに引き寄せると、前を見据えたまま一言、
「大事ないかァ?」
と訊ねた。
その問に「はい」とだけ答えた彼女はイゾウから離れない様に、けれども邪魔にならない様にと一歩だけ後ろに下がる。
「貴様、何者じゃ!」
「『外』の人間だな!?」
「オカグラ様をどうするつもりだ!」
そんなナツメとイゾウのやり取りを見て老人達は口々に喚き立てるが、それらを聞いたイゾウはその唇をニヤリと歪めると口を開いた。
「お前ェらの言うその『オカグラ様』ってのはさっきの舞姫さんだろう?…残念だが、こいつァ別人だぜ?」
「なっ!何を言うか!」
「見え透いた嘘を!」
「ささ、オカグラ様こちらへ!」
だがしかしイゾウの言葉に聞く耳などはなから持つつもりも無い老人達は、再び喚き立てるとナツメに向かって手を伸ばした。
それにビクリと怯えた彼女の気配を感じ取ったイゾウはチッと舌打ちを溢した後、やれやれとため息を溢し肩を潜める素振りをすると、
「悪ィが、こいつを無事に連れ帰らねえと煩ェオッサンがいるんでね。」
と言い着物の懐に手を突っ込んだ。
そのイゾウの仕草に僅かに苛立ちめいたものを感じ取ったナツメは、
「…隊長、乱暴は駄目ですよ。」
と耳打ちする。近寄った彼女の顔を面の下からちらりと伺ったイゾウはもう一度ため息をつくと「わぁったよ。」と返事をして再び老人達を見やった。
そして暫し何やら思案した後、向かって右側で騒いでいる小柄な老人を指差すと、
「…おい、そこのじいさん。ちぃとこっちに来いや。」
と呼びつけた。
当然の事ながら指名された老人は、とてもカタギとは思えない雰囲気を漂わせているイゾウに警戒心を露にして近寄ろうとしない。
イゾウは仕方なく後ろにいたナツメの腕を取ると自分の前に立たせる。
「ほら、危害は加えねえから来い。」
ナツメの肩に手を添えたイゾウは再び、いくらか和らいだ声色で老人にそう呼び掛けつつ手招きをする。
老人は警戒を解くことは無かったが、それでも自身の使命を思い出したのかおずおずと彼女に歩み寄った。
イゾウはその隙を逃す事なく、すかさず老人の片手を取ると、
……ぱむっ。
と薄っぺらな音を立てて半ば無理やりナツメの胸部へと触れさせる。
「…んな!」
余りの暴挙に硬直してしまったナツメを他所に、イゾウはニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべると、
「………な?『無ェ』、だろう?」
と言い放った。
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