サルビアのこころ

□肆
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(…また、だ。)


ナツメは今、トイレに行った帰りである。
道に迷いそうな程に広いモビーの内部の中でも彼女が出歩くのは限られた一画、身体の調子が安定したので医務室を出て与えられた自室とその周辺だけだ。
自室と言っても元々物置部屋だった場所で、ただひとつ普通の物置と違う所を挙げるとするならば、ここが隊長クラスの自室がある一画である事位だ。
空き部屋は有ったのに何故わざわざ物置を片付けて部屋にしたのか、それはナツメ自身の身の安全を考慮しての事…というのは建前で、自分がいまだ警戒対象である事を彼女は知っている。
だがナツメ自身それをどうとは思っていない。どうせそんなに長くこの船にお世話になる訳ではない、捜している「彼」を見つけたら船を下りて新しい生活を始めるのだ。それにこの船の住人達からすれば自分は素性も分からない怪しい人物で、いくら緊急事態だったとは言えそんな人物が彼らの「家」であるこの船に居座っているのだから警戒されて当然だ。
だから、白ひげと会談した日の翌日に部屋を与えられてからいままでの約一ヶ月、ナツメは必要な時以外は極力部屋から出ないで過ごしていたし、部屋の隅に布を被せて寄せてあるガラクタやら本を弄っていれば暇潰しになるから、別に困る事も無かった。

だが、今の様にトイレなどでやむを得ず部屋を出た時に何処からとなく向けられる視線には、いまだ慣れられずにいる。
白ひげが体調を崩して意識不明だった事は伏せられていた、とマルコが言っていたし、ナツメ自身の悪魔の実の能力についても万が一を考え隊長クラスにしか知らされていない。
だから、事情を知らない平のクルーから見たら自分はマルコがある日突然連れて来た身元不明の怪しい人物であろうが、それも考慮してこの一画に部屋を与えられたはずだ。
だがそれでも、隊長クラスの自室に出入りする船員がいない訳ではないから、自然廊下を歩けばそんな人々からいぶかしむ様な視線を貰ってしまう。

だからナツメは今日もさっさと引っ込もうと足早に部屋に向かった。







何とかトラブルも無く部屋に戻ったナツメは「よしっ。」と誰にでもなく呟くと、腕捲りをして部屋の奥…ガラクタの山に向かった。
このガラクタを弄る許可は大分前に貰っていて、一番奥にある一際大きな塊に見覚えが有った彼女は数日前からその塊の回りに有る雑多な物を片付けていた。
そして今日、遂にその目的地の大きな塊…布を被せられている古びたアップライトピアノまでたどり着いた。

埃を丁寧に拭いて蓋を開ければそれは思っていた以上に上等な代物で、実はこの世界に来る前はバーで歌う事を生業にしていた彼女の目に、そのピアノはまた再び音を奏でる事を心待ちにしている様に見えた。


ポーン…、ポーン……


一音一音確かめる様に鍵盤を押せば、多少の狂いは有るものの綺麗な音を響かせるそれ。ただ、残念な事に高音部に数ヶ所ほど音が出ない場所が有ったが、ナツメは別に高名な音楽家ではない…しがない夜の歌うたいだ、だから気にならなかった。


(あの人を見つけたら、また何処かのバーで歌って暮らして行こうかな……。)


そう考えたナツメは、このガラクタ部屋が自室になった事に改めて感謝した。
そしてその日から、モビーディック号の船内には時々軽やかなピアノの音と、微かな歌声が聞こえる様になった。
ただ、ほぼ男所帯なこの船は常日頃から賑やかで、しかもナツメ本人も周辺の部屋の住人がいない時間帯を狙って練習しているから、ミュートをかけて出来るだけ小さな音で練習しているピアノの音などに気付く人はいなかった。
とはいっても見張りも兼ねて隊長クラスが一人は近くの部屋にいる様だからおそらく数人に気付かれてはいるのだろうが、「ピアノに興味を持つ程暇じゃないだろう」と思っているナツメは日々気にせず練習に励んだ。






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