サルビアのこころ

□序章
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ああ、まずいな。
とうとう目も霞んできた。




どこまでも続く蒼の世界にぽつりと浮かぶ小舟。
その小舟の上に、女は居た。

春日ナツメ。それが彼女の名前だ。
取り立てて美人ではない彼女は、今時風にパッチリしておらず、どちらかと言えば切れ長な目もとと薄い胸がコンプレックスな、どこにでもいる平々凡々な女だ。
唯一人と少しだけ違う点と言えば、妙齢の女性でありながら元来のサッパリした性格のせいも相まって、道を歩けば「お兄さん」と声をかけられる…という所である。
しかしながら、今の彼女を見て男性と間違えるような輩は早急に眼科を受診するべきだ。
なぜならば今の彼女は、この日の為にと肩まで伸ばした髪をアップに結い上げ、胸元まで大きく開いた純白のドレス…所謂花嫁衣装を身に纏っているのだから。

そんな彼女が今いるのは、その装いにふさわしいチャペルのバージンロードではなく、大海原にぽつりと浮かぶ小舟である。
一体何故こんな事になってしまったのか、それをひたすら考え続けている彼女はもうかれこれ三日はこの状態のまま、ただ波にたゆたう小舟に身を任せていた。


(…もう三日も飲まず食わず……。あの人は、無事なのかな…。)


ぼんやりとした意識の中で彼女は、これから先の人生を共にと誓うはずだった男をその脳裏に思い浮かべる。
両親が既に他界していたから、兄に手を引かれて歩いたバージンロード。
彼の元に着き、その華奢な手を彼の腕に絡め微笑みかけた次の瞬間、大きな地鳴りとともに揺れた大地。
驚きつつもしがみつく様に男の腕にすがった彼女の足元には、パックリと地割れの様な裂け目が現れ、あっという間に二人を飲み込んだ。

何時の間にか意識を手放した彼女が目覚めた時には、傍らにいたはずの愛しい男の姿は既に無く、呆れる程に晴れ渡る大海原に、独り小舟で揺られていた。

何が起こったのか、どうしたらいいのかも分からずに途方にくれた一日目。
その夜は当たり前だが一睡もできなかった。

永遠にも感じられた長い夜が開け、顔を覗かせたご機嫌なお天道様に腹を立てながらも、空腹と渇きに彼女が襲われた二日目。
その日の夕暮れ時、小舟の側に一つの果実が流れついた。
アボカドの様な形状の、しかし表面には毒々しいまでの渦巻き模様を纏ったその果実は見た目の割りには豊潤な香りを放っており、誘惑に負けた彼女はそれを口にした。
だが、その果実は香りに反して強烈な不味さで彼女の生きたいが故の食欲までも阻害する。しかし根性で何とか半分を食べきった彼女は残り半分の果実を傍らに転がすと、バッタリとその身を小舟に投げ出した。


それからさらに、三日が経った。


彼女は、もう限界まで飢えと渇きに見舞われ
ただ仰向けになりながら大海原をさ迷っていたのだった。
そんな彼女が、薄れゆく意識にいよいよ死を覚悟して下がる瞼に身を任せた最期の瞬間、その視界を横切ったのは空とも海とも交じらぬ輝く蒼の閃光だった。




【続】

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