兎耳のアイリス

□その18
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その大きな大きな背中は、私にとってのヒーローになった。







「ミラ、大丈夫だから気をしっかり持てってんだ。」

「うん………ありがとう、サッチさん………」


暴風雨に晒された甲板の隅で、サッチは懸命に少女を励ましていた。いつもビシッとキメているリーゼントは乱れ、パリリと糊の効いたコックコートもずぶ濡れで薄汚れてしまっている。しかし既に彼の頭の中にはそんな事を気にする余地は微塵も無く、今はただひたすら目の前で弱っていくミラを繋ぎ止めるのに必死だった。
ほろほろと涙を流す少女は、頭に乗る暖かな掌の気配に縋るように目を閉じ俯いている。もはやどうすれば彼女を元通りに「こちら側」に留められるのかは、サッチにも分からなかった。けれど、何もしないでもいられなかった。何故と訊かれても理由などは分からない。ただ、漠然とだが「ミラと別れたくない」という思いだけが、彼の心の内に沸き上がるのだ。優しく動かしているその掌とともに、まるで脈動するかのように増していくその気持ちに、名前はまだ無い。しかしサッチは、今はまだそれに名前や理由を求めようとは思わなかった。
とにかく今はミラを、自分の料理を美味しいと笑ってくれたあの笑顔を失わずに済む方法だけを、サッチは考えていた。
ミラもまた、このまま訳も分からずにサッチやこの船の仲間たちと別れるなんて嫌だ、とそれだけを考えていた。けれど身の内から沸き上がる恐怖はどうしても無くなってはくれず、ただただサッチの暖かな掌に縋るしか出来ない。その事が悔しくて歯痒いのに、少しでも気を許せば、たちまち恐怖という悪魔に荒海へと引きずり込まれてしまいそうで、カタカタと震える身体を抑え込むのが精一杯だった。

だが。


「「……?」」


背後から感じた何か圧倒的なものの気配に、二人は同時に振り向いた。

その時にミラが見たのは、暗闇の海の中遠くから微かに見えた灯台の灯りのような、「人」が確かに持ちうる、大自然へと抗う「力強さ」だった。


「お前ェら……酷ェツラしてんじゃねえか、グラララ……」


バン!と音をたてて豪快に開いた扉から現れた白ひげは、二人に気が付くなりそう言って笑う。その堂々たる姿は、船がいま陥っているこの情況など何という事もない、と言わんばかりの様であった。


「お、親父………?」
「白……ひげ……さ……」


二人の若者の口からは同時に同じ人物を呼ぶそれぞれの言葉がこぼれ落ちる。だが、白ひげの視線はそのうちの一人であるサッチを素通りすると、真っ直ぐにミラへと向かった。


「なんだ、嬢ちゃん。随分と情けねえ姿だなァ。」

「お、親父………こいつが見えんのか?」

「………サッチ。お前ェに見えるもんが、俺に見えねえ訳が無ェだろう?」


驚いた様に目を見開いて尋ねるサッチに、白ひげはさも可笑しそうに答える。その答えは、果たして「当然の事」という意味なのか、それとも「白ひげだからこそ」という意味なのかは分からない。だが、そのどちらだとしてもサッチにはごく自然の事として受け取れた。

なんと言っても、親父の事だ。
親父は、どんな凄い事でもサラリとこなしてしまう。
敬愛する親父という人物は、何をしようとも何ら不思議では無いのだ。

それほどにサッチは、いや、彼だけではない、この船に乗る全ての者はこの白ひげという「皇」を信頼している。それは誰もが疑う事の無い、この船にとってはごくごく当たり前の事だった。
まだ白ひげ海賊団で暮らし始めてそれほどに長く無いミラも、みんな程ではないものの最近はそれを自然に受け入れ始めていた。ただ、彼女の場合はまだそれを目の当たりにした事がほとんど無かったので、頭ではそう分かっていても今のサッチ程にはすんなりと飲み込む事が出来なかった。



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