兎耳のアイリス

□その17
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『大丈夫か?』


そんな言葉とともに、こうして手を差し伸べられた事が、前にもあった気がする。
ミラは恐怖に支配されつつある瞳でその逞しい腕を見つめた。




驚愕に彩られた眼を見開いて咄嗟に手を伸ばしたサッチは、見馴れているはずの少女の見馴れぬ姿に思わず肩を震わせる。そんな彼の横をラクヨウが駆け抜けたかと思うと、数歩通り過ぎた所で立ち止まり振り向いた。


「サッチっ!この忙しい時に、んな所で一人遊びしてンじゃねえよ!」

「あ?あ、あぁ………」

「………お前ェどうした?顔色悪ィぞ?」

「いや、俺ぁ大丈夫だってんだよ。それより……っ、」


そこまで言ったサッチは、一度ミラを見やった後に言葉を詰まらせる。ラクヨウは彼のその様子に不思議そうに首を傾げたものの、部下から呼ばれてすぐに立ち去った。
残されたサッチは、先程ラクヨウの放った「一人遊び」という言葉を反芻して愕然とする。何故ならそれはつまり、ラクヨウには今のミラの姿が見えていないという事だからだ。
ミラは確かに自分の意思で姿を現したり消したり出来る。それは例えば「沈む(眠る、休む)為に完全に姿を消した状態」や「イゾウの様な特殊な人にだけ見える状態」、逆に「あらゆる人の眼に映る状態」という大きなくくりのものであった。サッチやラクヨウは「特殊な人」では無いので、ミラが意識して人前に出なければ見えない。だが、今のミラはサッチには見えているのに、同じカテゴリであるはずのラクヨウには見えていないのだ。
しかもサッチの眼に映る今のミラの状態は、壁が透けて見える程に存在感が薄いのである。

一体、彼女の身に何が起きているのだろうか。

サッチは雨に濡れて冷え始めた身体をぶるりと震わせた。
だがすぐに頭を切り替える様に振ると、もはや川の様に水が流れる甲板に片膝をついてミラを見る。彼女もまた、定まらない視線を何とかしてサッチへと向けた。
しばらくそうしてジッと見つめ合ったた後、彼は口を開き慎重に言葉を選びながら語りかける。


「………いつから、だ?」

「………。」

「今日いきなりこうなったのか?」


普段はおちゃらけているサッチの真剣な問いかけが詰問に聞こえたのだろうか、ミラは少し俯くと首をふるふると振った。しかし恐る恐る視線を上げ、消え入りそうな小さな声で


「……わか、…わから、ない……。いつの、間にか……あまり…出られなく、なって。……今日は、大丈夫……だと、思ったら………海が……う、……海が……っ。……前は、嵐なんて………へいき、だった……。…………ひ、………ひとり、だって………慣れて……る、のに……。」


と歯の根の噛み合っていないような口調で言い募る。
けれどもサッチは少女のこの言葉を聞いて、今まで自分が彼女に対してしてきた仕打ちを思い出し、胸が苦しくなった。


『独りだって、慣れてるのに。』


こんな寂しい言葉を、こんなか弱い少女に言わせたのは、他でもない己ではないか。
なんて事だ、あのコックの言う通りだったのだ。
前は嵐だって平気だった、というのだって、以前は今程に彼女に寂しい思いをさせていなかったからだ、という自覚もある。
自覚があるのに、なんとなく放置してしまっていたのは紛れもない事実だ。

だから彼女は、ミラはこの狂暴な海への恐怖を「たった独り」で耐えなければならなくなったのである。

忙しい、というのを理由にサッチが彼女への対応をおざなりにしてしまったが為に。



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