兎耳のアイリス
□その16
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ゆらゆらと、優しい揺りかごに揺られているような気分の中で、ミラは微睡んでいた。最近は何故だか気が付けばそんな状態で、朝夕関係なく意識が沈んでいる事が多い。以前だったらクルーのみんなと同じ様なパターンで暮らしていたはずなのに。
けれどもミラ自身こんな事は初めてで、どうしたらいいのかも分からなかった。以前の様にみんなと楽しく暮らしサッチの作った美味しいご飯を食べたかったが、彼女がどんなにそうしたいと願っても、どういう訳だか思うようにいかなかった。
まるで眠っているように沈む意識は、彼女の意思とは関係なく突然訪れては去っていく。そしてそれが訪れる間隔はこの数ヵ月の間に少しずつ短くなっていき、対照的に沈む時間は長くなっていた。また彼女が意識して姿を現そうとしているのに、誰にも見つけて貰えない、という不可解な事も起きるようになっていた。
(………でも、今日は………大丈夫みたい………)
ゆらゆらと揺り動かされながら、少しずつ意識が浮上する感覚を覚える。このまま眠りから覚めるように、水底からゆっくりと浮き上がるようにして姿を現すのがミラの「いつも」だった。
だがそこで、ミラは異変に気が付く。
(………なに、これ。)
ゆらゆらと波間に優しくたゆたう様な、船に乗っている以上当たり前とも言える揺れ。しかし、今日のそれは彼女の知るものとは少し違うようだった。
いや、彼女は確かに「それ」を知っているのだが、「それ」は彼女にとっては悪夢としか言い様の無いものだった。
海が牙を剥く、その悪夢。
少女の開けた視界に最初に映ったのは、まるで海へと引き込もうとする触手かのような、荒々しい波しぶきだった。
甲板の上を洗い流すように次々に襲いかかるそれに、クルーの幾人かが足を取られそうになりながらも必死にロープを引っ張っている。帆を畳んでいても余りの強風に大きくしなり、今にも折れてしまいそうなマストを守るため、男達はロープを掛けて前後左右から支えているのだ。
そのクルー達も各々の腰をロープでくくり、海に投げ出されないようにしながら、大粒の雨と吹き付ける強風、海から襲いかかる波に必死に耐えている。
「しっかりと踏ん張れ!」
「足下をすくわれるなよ!!!」
「力負けしたら海賊の名折れだァ!!」
男達は口々に勇ましく吼えながら、海と闘っている。
そんな光景の端っこに、白いワンピースの少女がいるという場違いさには、誰も気付かない。
「………ぁ………ぁっ………」
その少女が目を見開いて、恐怖のあまり引き攣ったような表情のまま膝を折った事に、誰も気付かなかった。
日に三度、食事の準備をしている時の厨房は戦争だ。小鯨の船とクルーを分けているとはいえ、何せ常時800人近い人数の食事を用意しているのだから、その作業の多さは推して知るべし。
「パンの準備はどうだ!?」
「あと10分ッス!」
「スープは?」
「これで仕上げだ!」
あちらこちらから怒号のように上がる雄々しい声。それもそのはず、この厨房にいるのはただのコックではない。サッチ率いる4番隊、闘うコック集団なのだから。
しかしその戦争さながらの作業も大分落ち着きを見せ始めたのは、食事の支度が大概整った事と同時に、船内のクルーの多くが食事どころでなく嵐と戦っているからに他ならない。
「……大分、揺れますね。」
「ああ、汁物が溢れねえように、気ィ付けとけってんだ。」
暴風雨に立ち向かっている船の内部は、普段とは違い調理作業に支障をきたす程に揺れている。多少の揺れであったならばものともせずに動き回るコック達も、この揺れの中では流石に難儀しているようだ。
不安そうに呟いた見習いの少年に、サッチは出来るだけ落ち着かせてやろうと笑顔で軽く背中を叩く。それに少年は「はい」と応えて少しだけはにかむと、ポトフを煮込んでいる大鍋の元へと歩いて行った。
少年の背中を見送ったサッチは壁に軽く寄りかかり、疲れた様にため息をこぼしながら横の丸窓から外を見る。雨は相変わらず叩きつけるように激しく降っており、はめ込んである窓ガラスを今にも破壊せんと風とともにより一層攻め立てていた。
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