兎耳のアイリス
□その14
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両親の顔は、もうハッキリと覚えていない。
ただ朧気ながらに、笑顔の美しかった母と長身で頼もしかった父に両手を引かれ港から見上げた探査船は、幼い少女にはとてつもなく大きく見えた。これからこの船に乗って、雄大な海を数年間かけて旅をするのかと思うと、少女の胸はこれ以上無いくらいに高鳴った。
家族に与えられた部屋は六畳程度の狭い一部屋だけで、二段ベットとタンス、父母の研究用の机を置いたらそれでいっぱいだった。けれども少女はその狭い一室が大好きだった。夜はベットの下段で母とともに眠り、昼は机に向かう父母の背中を眺めながら本を読んだりして過ごす。その部屋では、常に両親の姿が視界に入るのだ。言ってみれば少女の世界の全てが、その部屋にはあった。時おりどこかの島に寄港しては、大きなリュックを背負った両親に手を引かれ古い建物や石碑を見に行くのだが、それだって少女にしてみればピクニックのようなものだった。
見たこともない花、不思議な生き物、めまぐるしく変わる天気。
少女は両親とともに、グランドラインで冒険の旅をした。
目の前に広がる陽光を反射して青く輝く海は、ミラにとっては父と母と並んで全てを包み込んでくれる、そんな風にすら思えた。
あの日までは。
「あれ?ミラはどうした?」
食堂で新聞を読みながら独り茶を啜るイゾウを見つけ、サッチは声をかけた。ことり、と洗練された動作で茶碗を置いたイゾウは、目の前のリーゼントを見上げながら口を開く。
「さっきまでそこらにいたんだが……まぁ遠くにゃ行けないんだ、ラウンジ辺りにでもいるんじゃないかい?」
「ふ〜ん……そか。ところでイゾウ、なんでそんなに俺っちの頭見てるんだよ。」
「何で、って……お前さんの本体はリーゼントだろうよ。」
「しれっと失礼な事言うとか、俺っち泣いちゃう!……まぁ本体というよりポリスィーってやつだってんだ。」
「………フッ。」
調子に乗って格好を付けたサッチだったが、イゾウに鼻で笑われ項垂れる。だがすぐに顔を上げると、
「今晩何食いてェか聞きてーから、ちっとミラの奴探してみるってんだ。」
と言い残しラウンジへと向かった。
「くくっ……甲斐甲斐しいねェ。」
大方、最近構ってやれない穴埋めに少女の好物でも作ってやるつもりなのだろう。サッチにとってのミラという少女は、どうやら他のクルーよりは少しだけ「特別」な位置にいるようだ。
「……惜しいねェ。」
あの少女が、今を生きる存在だったのなら。
そうしたら、もしかすればサッチにとってはかけがえの無い人物になったのかもしれないのに。
「本当に、惜しいねェ……。」
イゾウは温くなってしまった茶を啜りながら、ぽつりと呟いた。
一方、食堂から観音開きの扉を経た隣にあるラウンジに出向いたサッチは、目当ての人物を見つけられずに首を捻っていた。
「なぁラクヨウ、ミラ見なかったか?」
「あぁ?……今日は見てねェなぁ。」
自隊のクルーだろうか、仲間とわいわいカードゲームに興じていたラクヨウは、サッチの問いかけに暫し思案すると答える。
「ほい、俺あがり!」
「っだーー!!またかよ!?」
「隊長、また丸裸にされちまいますよ?」
「いやまだだ、まだ俺ぁやれる!」
どうやら賭けでもしているらしく、しかもラクヨウは負けているようだ。だが楽しそうに談笑している辺り、本気で丸裸にされる事はあるまい。恐らくこれがこの男なりの親睦の深め方なのだろう。サッチがそんな風に考えていると、ラクヨウが不意に振り向き
「なに、見つかんねえの?喧嘩でもしたのかぁ?」
と一転して真面目な顔で問うてきた。
幽霊が苦手なはずのラクヨウですら、ミラの存在はもうすっかりと受け入れているらしく、そこにいくばくの疑問も持っていなさそうな顔で。
サッチはそれが少しだけ可笑しく思えて口角を引き上げた。
「いや、そんなんじゃないってんだ。」
「そか。……ま、女は面倒くせーからな。そのうち出て来んだろ。」
「そだな。」
他愛もない会話でやり取りを締め括ると、サッチはラウンジをあとにするのだった。
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