兎耳のアイリス
□その5
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ミラがサッチのもとに現れてから、彼の一日の始まりに僅かな変化が生まれた。
「ふわぁ〜……」
「おいサッチ、足落ちてんぞ。」
「んあ、悪ィ悪ィ!」
二段ベッドの下段のクルーから朝一で出た苦情に、サッチは上段から顔を出してウィンクしながら謝罪をすると梯子を降りる。
隊長クラスになれば仕事部屋も兼ねた個室が貰えるが、コックの一人に過ぎない彼はまだ数人との相部屋で、二段ベッドの上段のほんの僅かな空間だけがパーソナルスペースと言えよう。もっとも、荒くれ男ばかりのこの船においてプライバシーなんてものを気にするような繊細なやつなどは少数だが。とは言え、今のサッチには少しだけこれら寝食を共にする家族への『秘密』がある。
「よし!…………ってああ、忘れるところだった!」
肌着代わりのTシャツを換え上衣を持ったところで、サッチは慌てて二段ベッドに戻ると枕元にあるコンパクトを手に取った。
(忘れると、うるせェからな。)
小さな苦笑いを浮かべた彼は、洗面所へ向かう為に部屋を出たのだった。
一般クルー用のフロアにある共用の洗面所。船という場所柄か居住人数のわりには手狭なそこは、サッチが身支度を始める早朝の時間帯には先客がいる事はほとんど無い。
「……よし、今日も一番乗りってんだ。」
室内をキョロキョロと見回して誰も居ない事を確認すると、サッチは虚空に向かって
「いいぞ、ミラ。」
と声をかける。すると今までサッチ以外には誰もいなかったはずの室内に、まるでパッと花が咲いたかのように真っ白なワンピースを纏う小柄な少女が現れた。
「サッチさん、おはよう!」
裾を翻しツーサイドアップに結わえた髪を兎のようにピョンピョンと跳ねさせて、少女はかわいらしい声で朝の到来を告げる。幽霊なのに「おはよう」とは奇妙な気もするのだが、以前彼女に聞いたところによると幽霊にもちゃんと朝晩の感覚はあるらしい。ましてミラの場合は幽霊のくせに何故か「成長」もしている為、ことさら「時間」には敏感だった。だから朝には朝の挨拶をするし、夜にはちゃんと「おやすみなさい」と言って消える。
「おう、おはよ。」
ポンポンと軽くミラの頭を叩く仕草をしながら、サッチは鏡に向かうと髪をスタイリングしはじめた。
実体が無い彼女にそんな事をしたところで何があるわけでも無いのだが、こうした一連の動作がミラが来てからのサッチには当たり前の習慣となっているし、不思議とその行動にサッチ自身も疑問を持っていなかった。
「ねぇねぇ、サッチさん。今日の朝ご飯のメニューは??」
「今朝は、コーンポタージュとトースト、ベーコンエッグに大根サラダだってんだ。」
「う〜〜ん、美味しそ〜〜!!」
このやり取りも最早定例となっている。もちろん幽霊であるミラには朝食が何であれ関係無いのだが、何故か彼女はいつも知りたがるのだ。そして「美味しそう」と言った後、つやつやとしてほんのり薄紅に染まった頬に手を当てて、よだれを垂らさんばかりに蕩けた顔をするのがいつものパターンである。
サッチはそんな彼女の表情を見るにつけ思うのだ。
僅か5歳にしてその生を断たれたミラは、きっと世の中のあらゆる料理の旨さを知らない。
成長とともに食べられる物が増え、やがては大人と変わらぬメニューを完食できる日が来て家族がそれを喜ぶ、というくすぐったい経験も無い。
それは何と寂しく悲しい事なのだろう。
そんな事を考えるからこそ、サッチという男は意味が無いと分かっていても毎朝きちんと彼女の質問に答えるのだ。
「はやく!はやく厨房に行こ!」
わくわく、そんな気持ちの高ぶりを隠す事無く自身の周囲を飛び回る少女を見て、サッチもまた困った様に眉尻を下げ苦笑いのような優しい表情をする。
彼の毎朝は、こんな風にして少しだけ以前よりも彩りを帯びるようになっていた。
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