兎耳のアイリス

□その1
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それは、本当に偶然だったんだ。

………一目惚れ、ってやつなんだろうか。











コックの朝は早い。まだ朝陽も昇らないうちに起き出し、朝食の準備を始める。親父こと白ひげを慕う沢山の荒くれ男が集まり、大所帯になりつつあるこの白ひげ海賊団のコック達であれば、それはなおのことであった。


「……さて、今日もバッチリと決めるってんだ!」


寝間着を脱いで清潔なTシャツに身を包んだコック、サッチは上衣を肩に引っかけると顎まである長い前髪を掻き上げながら部屋を出る。上衣を持つのと反対の手には、先日上陸した島の古道具屋で見つけたレトロなデザインのコンパクトがある。もう二十代も後半を迎えた厳つい風貌の男が持つには、そのコンパクトは些か可愛らし過ぎるアイテムだが、サッチは気が付いたら店に入りそれを手に取っていた。

中には細かい細工が施された櫛が入った、手のひらサイズの鏡つきのコンパクト。

寂れた古道具屋のガラスケースの中で、太陽の光を鈍く反射して光るそれを、サッチは一目見て気に入った。ちょうどコック服の内ポケットに入るサイズの鏡を探していた所だった彼は、櫛も付いたそれを迷う事なく購入した。












「おーっす、早いなサッチ。」

「おう、不寝番お疲れってんだ。」


洗面所に入ると、ちょうどこれから就寝するらしいクルーがいた。サッチは片手を上げて挨拶すると洗面台の前に陣取る。
船上生活では真水は本来貴重なのだが、このモビー・ディック号では大所帯ゆえに他の船よりは少し余裕が有った。それは数隊に別れたクルー達が持ち回りの当番制で、海水を汲み上げ真水にする装置を使い供給しているからである。専用の部屋にて自転車のようなペダルを漕ぐ装置を、ひたすら交代で動かし続けるこの当番は肉体的にはかなりキツいものの、長い航海での運動不足を解消する上でも効果的なものだ。だから、この当番は全クルー必ず参加するように親父からキツく言い渡されている。


「サッチお前ェ、明日水当番だろ?」

「あ?あー……そうだったか。」


ショリショリと髭を整えながら他愛もない雑談を交わす。それは毎朝のお決まりの行動だが、この日は少しだけ違っていた。


「水当番って言えばサッチ聞いたか?隊を増やすって話。」

「あ?ああ、聞いたぜ?」

「それな、単純に増やすんじゃ無くて向き不向き考えて再編した上で増やすらしいぞ?」

「は?マジかよ?んじゃ遂にコック隊も出来ちゃったり?」


男のもたらした情報に、サッチは僅かに色めき立つ。今厨房にて料理をしているコックは所属がバラバラで、統率がなかなか取れない事も多かった。だから同年代の中でもいち早く「隊長」にのし上がっていた友人であるマルコに、サッチは以前からコックだけで纏める重要性を説いていたのだ。もちろんそうなったあかつきには、是非自分が隊長になりたいというちょっとした野心も有ったが。


「まぁどちらにせよ、俺ぁ親父の言う事にゃ従うけどな。」

「そりゃそうだってんだ。」


胸のうちに潜ませた野心はおくびにも出さずに、サッチは至って普段通りの人好きする笑顔で頷く。それに「だよな!」と答えた男はその後「んじゃ寝るわ。」と言うと洗面所を出て行った。

男を見送ったサッチは洗面台の前に置いたジェルを手に取り、男性にしては長すぎる前髪に揉み込むようにして馴染ませ始める。そしてその前髪をオールバックのように、しかしふんわりと前頭部に乗せるように膨らみを付けながら後ろへと流し撫で付けた。


「さて、後は……、」


いよいよ、あれの出番だ。
一目見て惚れ込んだ、小さなコンパクト。
正直、自分が持つには可愛らし過ぎるアイテムだという自覚がサッチには有った。だから男が立ち去るまではさりげなく他の事をして間を持たせたのだ。
鈍色に輝くコンパクトの蓋の部分には、百合のような大輪の、しかし清楚な花の模様があしらわれている。花なぞには詳しく無い為何の花かは分からないものの、その造形を見ただけでもかなりの名工の手により造られたのは明らかな逸品だ。不思議と惹き付けられるその花は、時間を忘れいつまでも見入っていられるとサッチは思う。
だが、名工による「道具」は使われてこそ価値がある。
そう考えているサッチは、宝物を扱うような丁寧な手つきでゆっくりとコンパクトを開いた。


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