サルビアのうた

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「……まだ、」


ことり。
小さな音をたてて作業台に置かれた麺棒は、コロコロと転がってボウルに当たり止まった。
粉だらけになった作業台を丁寧に掃除し水拭きした後、最後に度数の高い焼酎でもう一度拭いて消毒する。

一連の作業を教わった通りに終えたナツメはフリルのついた可愛らしいエプロンを外すと、オーブンから取り出してあら熱を取っていたパンを一つ手に取り、真ん中から二つに割った。
途端に中から溢れ出た湯気は、その香ばしい香りで彼女の鼻腔を擽る。
けれど、さくりと一口含んで咀嚼したのちに、だらりとその腕を力なく下ろした。


「…まだ、一人じゃ…上手に作れないよ。」


ぽつりと呟かれたその言葉は、深夜の無人の厨房に空しく響いた。

あの「事件」があった忌まわしき夜から、二週間が経過していた。
その間にナツメの怪我はすっかり完治し、数日前から彼女は通常業務に戻っている。
まるで何もかもが以前と変わらない様に流れる日々の中、クルー達は皆今まで通りに陽気に海賊家業を営んでいた。だが、ナツメは気付いていた。

朝食の時、焼き立てのバゲッドを篭に沢山詰め込んだサッチの元気な声が聞こえないのを、皆が気にしない様にしている事。
鍛練の時に、一際生き生きと甲板を跳ね回るエースの姿が無いのを、皆が物足りないと思っている事。

そして。

陽気に酒を飲み交わす時、欠けた歯で豪快に笑う巨体の彼がもう戻ってこないのを、皆が騙されていたと一蹴出来ない事。

ナツメ達だけでは無い、一般のクルー達も皆、一度に沢山の物を失ってしまったのだ。
それは仲間であったり、日常であったり、或いは信頼であったり。
サッチやエースは勿論の事だが、それに加え古株であったティーチは、皆の胸に残した思い出が多すぎた。それが故に皆の心に与えた衝撃は計り知れない。そう簡単に「騙されていた」などと割り切れない者もいるのだ。
それらを表に出さないように日々を振る舞う仲間達の姿が、ナツメには却って痛々しく思えた。

だからこそ。


「……いよいよ、明日か。」


呟いたナツメは厨房の灯りを消すと、荷造りをするために自室に戻った。











この二週間の間、白ひげ海賊団は総力を結集してエースとティーチの行方を調べ上げた。だが、島々に駐屯していたり、または航海中であった傘下の海賊団の情報網を駆使しても、彼を捕まえる事は出来ないでいた。
ある一定の場所までは足跡を終えたものの、とある場所でそれがパッタリと途絶えてしまうのだ。周辺にはそう遠くない場所に海軍の基地も在った為、まさか海軍に捕縛されたのでは、との声も上がったが今のところそのような情報は入っていない。
そんな中、白ひげと隊長達はナツメからある「希望」を持ち掛けられた。


「エースを、追うだぁ?」

「はい。とは言え、たまにマルコ隊長と行っている偵察の足を少々伸ばす…という程度ですが。」


ラクヨウが驚いた様に上げた声に、ナツメは淡々と答える。そんな彼女の後ろでは、根負けしたのだろう、苦虫を噛み潰した様な表情のマルコが貧乏揺すりをしながら佇んでいる。


「本当は、俺一人で行く予定だったんだよい。だが、コイツが一緒に行くって聞きゃしねえんだい。」


珍しく忌々しいと言わんばかりの口調で愚痴をこぼしたマルコをチラリと見遣った後、ナツメは目を閉じたまま黙って鎮座する白ひげを見つめ口を開いた。


「現状、ティーチのヤミヤミの能力を実際に見たのは私だけです。エースの行方を探すのなら、逃走中のティーチが能力を使った痕跡を発見出来ればより有利かと。」

「……。」


確かにナツメの言う事には一理ある。だが、ただの偵察程度ならばともかく今回は彼女自身が狙われている立場なのだ。それが分かっているからこそ、マルコも各隊長達も首を縦に振るのを躊躇っているのだ。
しかし、白ひげは違った。
スッとその老いてなお力の漲る瞳を見開くと、真っ直ぐにナツメを見据える。
そして、ただ一言問うた。


「……覚悟は、あんのかァ?」


命を賭ける、覚悟が。
命を奪う、覚悟が。


もとより海賊になる事を選んだ時点で覚悟など決めていた。ただ、その「覚悟」を形にする機会が今まで訪れなかっただけだ。だから、ナツメは躊躇などしなかった。


「あります。」


キッパリと答えた彼女の瞳は、白ひげの信頼を裏切らない光を宿していた。


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